前回は、水平社創立宣言における「特殊部落民」という蔑称の使用には、社会が部落民に対して与えた差別的な蔑称を自分たちのものとして引き受け、それを反逆の措辞に代えようという強い決意が込められていたこと、そして、このような自分たちがめざす解放運動の方向を明らかにするために蔑称を敢えて使用するということは、差別され抑圧された集団・民族の解放運動の第一段階として不可避な道であったことを明らかにしました。これに続く今回は、水平社創立宣言が語る「集団運動」の必然性について見てみます。

 

ゆめネットみえ通信

3 「特殊」の中の「普遍」―水平社創立宣言

現在の秩序の変革への意志

 この「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」という呼びかけに続けて、水平社創立宣言は、自らが「集団運動」を起こす「必然性」について、次のように語る。

 

  長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為の運動が、何等の有り難い効果を齎(もた)らさなかった事実は、夫等(それら)のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎(つね)に人間を冒瀆されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦わるかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想えば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら集団運動を起せるは、寧ろ必然である。

 

 「宣言」が言う「過去半世紀」とは、1871年に明治政府によって発布された「解放令」(近年では「賤民廃止令」「賤称廃止令」とも呼ばれている)から、1922年の全国水平社創立までのことを指しており、「宣言」はこの間の部落に対する取り組みをふりかえって、こう語ったのだった。

 明治政府が「賤民」身分の廃止を宣告した「解放令」は、西洋文明の模倣・移植であった文明開化政策の一環として出されたもので、直截的には国民創出のための戸籍と税金(江戸時代には「賤民」身分の人たちの居住地に対する税は免除されていた)の平等化を意図したものであった(42)。しかし、水平社創立から二年後の1924年に出版された高橋貞樹『特殊部落一千年史』(43)が「単なる名称変更に終わり、何ら効果を結ばなかった」(岩波文庫版『被差別部落一千年史』、172頁)と述べているように、「解放令」には旧「賤民」に対する援助・救済政策をまったく示されていなかったため、深刻な経済的・社会的な不平等を変化させることはできず、空約束に終わったのであった。

この「解放令」の後、1880年代から90年代にかけては部落の有識者たちによって部落改善運動が、また、1900年代の初めからは、政府や府県、市町村、警察等によって部落改善政策が取り組まれた。しかし、これらの取り組みは、部落を社会的・文化的に劣った存在とする見方にもとづくもので、結局のところ、「祖先伝来、われわれを踏み躙(にじ)って来ながら、その虐待の足を洗おうともせず、われわれに握手を求めた同情者たち」の運動であり、「また部落民中の一部の人々の、運動を助けてもらいたい、縋(すが)って行こうの運動」(同前、227頁)であった。こうした「同化運動、足洗い運動」(同前、257頁)の結果、「われわれは自ら恥じ卑しうして、社会の冷笑侮蔑の視線をまともに見返すことすらもしなかった。われわれは世間の眼を逃れて、迫害を脱しようとした」(同前、233頁)。

このように、水平社創立宣言が語る「多くの人々によってなされた吾らの為の運動が(略)かえって多くの兄弟を堕落させた」とは、劣等コンプレックスと依存心を植え付けられて、主体性を喪失し、自信を打ち砕かれた部落民の姿を指していたのであったが、こうした部落改善政策、部落改善運動が部落・部落民にもたらしたものと、植民地における同化政策がマルティニックにもたらしたものとは共通するものがあった。

セゼールは『帰郷ノート』(前掲)で、カリブ海に浮かぶ島々〈アンティル諸島〉のひとつ、マルティニックの現実を「暁の果てに、脆い入江から芽生える、腹を空かしたアンティル諸島、疱瘡であばただらけのアンティル諸島、アルコールに爆砕され、この湾の泥の中に座礁し、この不吉に座礁した町の埃の中に座礁したアンティル諸島」(27頁)と描いた後、そこに生きる人びとについて、「この無気力な町の中の、飢えの、悲惨の、反抗の、憎しみの叫びを素通りにしてしまうこの群衆。かくも異様におしゃべりで無言のこの群衆。/この無気力な町の中の、ひしめき合わず、混じり合わず、外(そら)し、逃れ、身をかわす呼吸をつかむのが巧みな、この異様な群衆。群を成すことを知らぬ群衆」(30頁)と語る。

 セゼールの故郷、マルティニックがフランスによって植民地化されたのは1635年のことであった。その後、フランス本土からの植民者たちによるサトウキビ栽培が商業的に成功し、プランテーションを中心とした経済が確立してゆくに従がって、アフリカから奴隷が労働力として大量に導入された(44)。

1685年には、「黒人」を奴隷と定め、白人の「動産」とする「黒人法」と呼ばれる法律が制定され、この奴隷制が廃止されるのは、「解放令」より20年余り前の1848年であった。奴隷制は廃止されたが、「解放令」と同様に、元奴隷たちには新たな生活を開始するいかなる手立ても与えられなかった。土地も工場も白人大農園主の手に独占され、プランテーションを離れて「丘」(モルス)に住み着いた元奴隷たちは、白人大農園主のもとで低賃金労働者として搾取され続ける以外に生き延びるすべは存在せず、そして、奴隷制廃止後も、社会構造はやはり肌の色によって明確に階層が区別されるものであり続けた。

 1870年に宗主国フランスで「文明化の使命」を掲げる第三共和政が成立すると、黒人参政権の復活、植民地県議会の設立、本国の市町村制度のカリブ海植民地への適用、兵役義務などの制度面での「同化」とともに、部落改善政策と同じような徹底した文化的同化政策が進められることになった。黒人奴隷が生みだしたクレオール語文化は劣等で野蛮なものであり、文明の言語であるフランス語を話し、フランス文化に同化することによってのみマルティニック黒人は「人間」となることができる、という信念がたたき込まれた。

このように、植民地支配は、黒人の心の奥底に狙いを定めて、屈折した劣等意識を植えつけたのであった。それゆえ、「黒人の魂を表明する」ことを思考の起点としたセゼールは、ただ死なないために「屈辱の重み」「百年間の鞭打ち」(61頁)に耐え忍ぶだけの「われわれの卑しい反抗」(68頁)を拒否し、「抗議の身構えによって天に穴を穿とうなどと決して望むこともなく、手をつき這いつくばって進む」(39頁)「町」、「暁の果てに、忘れられ、爆発することを忘れた丘(モルス)」(31頁)、「群を成すことを知らぬこの群衆」(30頁)に蜂起を促したのだった。

水平社創立宣言も、「多くの兄弟を堕落させた」同化政策・同化運動に対して、「それらのすべてが我々によってまた他の人々によって毎に人間を冒瀆されていた罰であったのだ」という激しい言葉で拒否し、「人間を尊敬することによってみずから解放せんとする集団運動」を促す。フランソワ―ズ・ヴェルジェスは、ネグリチュードを「暴政への拒否」であり、「闘争」であり、「過去の世紀に構成されたような文化のシステム」への「反抗」であると表現しているが(45)、水平社創立宣言の深部に一貫して流れているのも、「人間を冒涜する」現実への「拒否」「闘争」「反抗」であったのだった。

 

(42)ひろた まさき『差別からみる日本の歴史』(解放出版社、2008年、201―202頁)参照。

(43)テキストとして入手しやすい沖浦和光校注『被差別部落一千年史』(岩

波文庫)を使用。原題の『特殊部落一千年史』から『被差別部落一千

年史』への改題について、校注者の沖浦氏は、「解説」において、特殊

部落という用語が「差別事象の絶えない今日において、依然として賤

称語として隠微に語られている」、「今日文庫本のように広く流布され

る場合は、今日一般的に用いられている被差別部落という呼称の方が

適当と考えたから」(348頁)と説明している。しかし、この改題は、

「特殊部落」という呼称を敢えて使用して差別的秩序への反逆と変革

の意志を示した水平社創立者たちの強い決意を無力化するものである

と思う。

(44)マルティニックの歴史については、砂野幸稔「エメ・セゼール小論」(前掲書、227―238頁)を参照。

(45)フランソワ―ズ・ヴェルジェス「対談を終えて―エメ・セゼール小論」

(前掲『二グロとして生きる』97頁)。