ゆめネットみえ通信
全国水平社創立・「宣言」の再考
来年(2022年)の3月3日に、人間を差別する者に対する闘争を高らかに宣言した全国水平社が創立されて100年を迎えます。全国水平社創立及び「宣言」については、これまで政治史・社会運動史・思想史などさまざまな視点から論じられていますが、これを機会に、そこから学んだことをふまえて、前々から私が考えていたことをいくつか書き留めておきたいと思います。
1917年のロシア革命(当時、革命の担い手はロシア帝政下で差別迫害されていたユダヤ人と認識されていました)、第一次世界大戦後の「民族自決論」の提唱、1919年に日本政府がパリ講和会議に提案した人種差別撤廃条案は、植民地主義・人種主義の暴力に晒されていた地域・人びとに大きな影響を与えました。このパリ講和会議のさなか、第1回のパン・アフリカ会議が同地で開かれ、イギリスの植民地インドにおいてはガンジーが非暴力・不服従運動を開始しました。また、東アジアでは、日本に併合された朝鮮で1919年に3.1独立運動が、続いて中国では5.4運動が起き、その標的は日本でした。
こうした「民族自決」の理念に、日本国内において敏感な反応を示したのが被差別部落(以下、部落)の青年たちでした。1921年2月3日に帝国公道会主催によって開かれた第2回同情融和大会の会場において、平野小剣は、部落民を「民族」と規定して「民族自決団」への集結を訴えた檄文をまきました。そして、「全国水平社創立大会記」(『水平』第1号、1922年7月)に「欧州戦乱の産物として世界の一角から乱打された民族自決の暁鐘は、吾々民族に強い刺激を与えた」と書き記されているように、このような民族自決路線・民族解放路線は創立期・初期の水平社運動に大きな影響を与えました(詳しくは2020年8月9日のブログの記事で取り上げた宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 1921―1924年』を参照してください)。
このように、全国水平社の創立は、第一次世界大戦後に広がった人種主義・植民地主義に対する水平的な異議申し立ての一環としてあったことを認識する必要があると思います。この点については、すでに30年近く前に、日本近現代思想史の研究者である鹿野政直さんも「全国水平社創立の思想史的意味」(『部落解放』1993年1月号)という論文で「水平運動は、民族運動という世界史的な潮流の一環との性格を帯びていた。」と指摘しています。後に述べるように、このことを反映して水平社創立「宣言」も、世界の「民族運動」の思想と多くの点で共通するものがありました。
水平社創立「宣言」の性格
先の論文で、鹿野さんは、1910年代末―20年代初にかけて学生運動、労働運動、農民運動、女性解放運動が起き、それを進める団体や組織が「綱領」「宣言」「主張」をもつにいたったが、「水平社の結成とその『綱領』『宣言』『決議』も、こうした潮流の一環としてあった。」(「全国水平社創立の思想史的意味」『部落解放』1993年1月号)と指摘しています。つまり、「宣言」とは、そうした運動・大会の参加者の間での認識の共有をもたらすために行なわれたもので、水平社創立の「宣言」も例外ではありません。したがって、全国平社の「宣言」も、この創立大会の「宣言」の他にも、第6回大会(1927)の「宣言」、第16回大会(1940)の「宣言」が存在しています(詳しくは朝治武『水平社の原像 部落・差別・解放・運動・組織・人間』解放出版社、2001年を参照してください。)
水平社創立「宣言」の場合、その冒頭に「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ/長い間虐められてきた兄弟よ」と書かれているように、自らが内面化している「劣等コンプレックス」を克服し、部落民という集団の誇りと起ち上がりを、そして、思い描いた自己の姿へと到達しようとする決意を、創立大会参加者(および全国の部落民)に向けて呼びかけていました。先の「全国水平社創立大会記」には、奈良の駒井喜作が「宣言」を読み終えた時に「三千の会衆みな声をのみ面を俯せ歔欷(きょき―すすり泣きの意味)の声四方に起る。(略)やがて天地も震動せんばかりの大拍手と歓呼となった。」(「全国水平社創立大会記」前掲)と記されていますが、このことは「宣言」が書かれた目的を何よりも雄弁に物語っています。
このように、水平社創立「宣言」が話かけているのは、先ず創立大会に参加した部落民に対してであり、しかも部落民について語るためであり、よく比較される「世界人権宣言」や「フランス人権宣言」「アメリカ独立宣言」などとは、書かれた目的が違っていることを確認する必要があると思います。
水平社創立「宣言」の一般的な理解
インターネットで検索すると、水平社創立「宣言」が、一般的には「日本初の『人権宣言』」「日本で唯一の『人権宣言』」「フランス人権宣言、アメリカ独立宣言に負けない価値がある。」などと理解されていることが分かります。
水平社創立「宣言」では本文中に「人間」という言葉が何回も使われていますが、「宣言」の中のこの「人間」という言葉は、一般的なヒューマニズムから出たものというより、部落差別によって大きな苦悩にさいなまれ続けた体験に根ざした「人間解放」に対する激しい欲求から発せられたものといえるでしょう。この点について、鹿野さんは、「水平社『宣言』には、全文618字のうちに、『人間』との熟字が、10回も使われている。それほどに部落解放運動は、人間の回復にみずからを賭けていた」(前掲「全国水平社創立の思想史的意味」)と指摘して、部落民の「人間」回復を主張した水平社創立「宣言」は「日本における人権宣言の趣をもっている。」(『日本の近代思想』岩波新書、2002年)と述べています。
鹿野さんは、水平社創立「宣言」を「人権宣言」とは断定せずに、「人権宣言の趣をもっている。」というように、注意深い表現を行っていますが、それ以前にも、同じような意味で「人権宣言の趣をもっている」主張としては、「真正の人」の回復を正面に立てた平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に拠って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」(「元始、女性は太陽であった―青踏発刊に際して」『青踏』創刊号、1911年)という主張をあげることできます。また、戦後においても、たとえば、「健全者」への同化(=「健全者幻想」)の否認と脳性マヒ者の独自性を強烈に主張した「青い芝の会」(脳性マヒ者の障害者運動団体)の「行動綱領」をあげることができます。このように、水平社「宣言」が「日本初の『人権宣言』」「日本で唯一の『人権宣言』」という理解は、事実とはまったく異なっているといえるでしょう。
次に、「フランス人権宣言やアメリカ独立宣言に負けない価値がある。」という評価の問題についてですが、よく知られているように、アメリカ独立戦争は、英国からの独立を望む白人植民者と、これを防ぎおさえつけようとする英国との白人侵入者同士の戦いであり、この「独立宣言」に記されている有名な「all men are created equal」の“men”には女性、インディアン、黒人は含まれておらず、「『“老若・男女・上下の別なく相手を皆殺しにすることをもって知られるインディアン蛮族”』というように、インディアンに対する露骨な偏見の章句を含んでおり、人種差別の一典型である。」(白井厚・田中義一・原田譲治「『アメリカ独立宣言』の邦訳について(1)」『三田学会雑誌』77巻3号、1984年8月)ということが指摘されています。そもそも、この「独立宣言」を起草したトマス・ジェファーソン自身が、数百人もの奴隷を所有していたヴァージニアの奴隷主でした(上杉忍『アメリカ黒人の歴史』中公新書、2013年)。
さらにまた、特権階級だけでなく「市民」が権利の主体であるということを打ちたてた、世界史上の画期的な出来事とされるフランス革命についても、初期の革命の担い手だった下層の民衆や農民、ヴェルサイユ行進などでめざましい活躍をした女性たち、外国人が最後には排除されました(西川長夫「フランス革命と国民統合」『国民国家論の射程』柏書房、1998年)。そして、この時の「人間と市民の諸権利の宣言」(人権宣言)が「男性と男性市民の諸権利の宣言」であり、女性は権利の主体から除外されていたことから、オランプ・ド・グ―ジュは、これに異議を申し立て、「女性および女性市民の権利宣言」(1791)を発表したのでした(西川佑子「フランス革命と女性」『近代国家と家族
モデル』吉川弘文館、200年)。
このように、「フランス人権宣言やアメリカ独立宣言」が、人権という視点からすれば、こうした大きな問題が存在していることはすでに明らかにされているところです。したがって、部落民の「魂」の叫びである水平社創立「宣言」を、「フランス人権宣言やアメリカ独立宣言に負けない価値がある。」と評価することは、「宣言」の真の価値を見誤らせる恐れがあると思います。
水平社創立「宣言」の価値
もちろん、水平社創立「宣言」に関しても、伊藤雅子さんが、呼びかけの対象がなぜ「兄弟よ」であるのか、「吾々の祖先」がなぜ「男らしき産業的殉教者」であったと規定されるのかを問うて、「こんなにも人間の尊厳に熱く心をたぎらせた人たちですら、痛みを分かち合ってともに生きてきた女たちを意識の外に置き、性による差別には無とんちゃくでいたということ。これも時代の刻印のひとつかと思わせられる。」(『まっ直ぐに生きるために』未来社、1987年)と指摘しているように、同時代的限界が存在しています。
さらには、「どこにも『過去半世紀間』の日本の植民地支配にたいする批判は書かれていない。この『宣言』の『人間』には、日本人に支配されている植民地の民衆の苦しみとたたかいにたいする共感も、日本民衆としての自責の感情ももっていなかった。」という金静美さんの厳しい指摘や(『水平運動史研究―民族差別批判』現代企画室、1994年)、また、全国水平社内部でも、政治主義的な立場からとはいえ、1932年5月に発行された『水平社運動の批判―全国水平社解消論』で、「この宣言は、全体が宗教的臭味の強い字句と、文学的表現で満たされている。感傷的な文字を並べて部落民意識と排外主義的思想を強調している以外、我々はこの宣言から政治的意義を抽き出すことが出来ないことを指摘しなければならない。」という全面批判があったことも忘れてはならないと思います。このように、水平社創立「宣言」も、「性による差別」や「植民地支配」の問題に対する同時代的限界が存在していました。
しかし、水平社創立「宣言」は、「人間」を「堕落」させる同情エコイズムの拒否と自力による集団運動の提唱、部落民であることの積極的な受容と自己の集団の独自の価値の「発見」、劣等感の克服と支配的な価値観の否認など、自らを縛りつけている人種主義・植民地主義から解放されるための集団運動の思想が力強く語られていたことにより、「在日朝鮮人をはじめ琉球弧の人びと、アイヌ民族、ハンセン病回復者など国内における被差別マイノリティの自覚と運動に勇気と刺激を与えました。さらにこの宣言は、日本の植民地下にあった朝鮮の白丁(ぺクチョン)を中心として、1923年4月25日に結成された衡平社(ヒョンピョンサ)や、第二次世界大戦後におけるヨーロッパのスィンティ・ロマ、インドの被差別カースト(ダリット)などの解放運動にも影響を与えました」(「『全国水平社創立宣言と関係資料』をユネスコ世界遺産に登録を」)。
それだけにとどまらず、このような水平社創立「宣言」の思想は、1950年の『植民地主義論』(『帰郷ノ―ト/植民地主義論』平凡社ライブラリー)の著者で、フランスの旧植民地マルチニックの政治家=黒人詩人のエメ・セゼール、その影響を受けて人種差別問題を突き詰めて「人間を閉じ込めるものから人間を解き放つこと」(『黒い皮膚・白い仮面』『地に呪われたる者』みすず書房)という普遍的な問題に到達しようとした同じマルチニック出身でアルジェリア革命の理論家であるフランツ・ファノン、アフリカ系アメリカ人の闘い(=「ブラック・パワー」運動)のスローガンであった「ブラック・イズ・ビューティフル」、それらに触発されたスティーブ・ビコを指導者とする南アフリカの「黒人意識運動」など、植民地化された者が植え付けられた「恐怖、劣等感、おびえ、屈従、絶望、下僕根性」(エメ・セゼール『帰郷ノート/植民地主義論』148頁)の克服と黒人の特性・文化を誇らかに強調した第三世界の解放運動の思想と多くの共通点があり、その意味で、世界的な人種主義・植民地主義からの解放を求める闘いの思想の「先駆け」ともいえる意味を持っていると思います。
今から6年前に、障害者解放運動を牽引してきた一人である牧口一二さんと話をしていた時に、牧口さんは、水平社創立「宣言」について、「弱い立場のものが力を持つというのは大変なこと。口で言うほど簡単なことではない。水平社宣言で『人間に光あれ』と、弱い立場に置かれた中から、これだけの力を持つ言葉を持った。そのことにものすごく感動した。」と話してくれました。
「人の世の冷たさが、何(どん)んなに冷たいか、人間を勦わる事が何(な)んであるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。人の世に熱あれ、人間に光あれ」と語った水平社創立「宣言」は、実は、あるべき人間と社会の姿を提示しようとしたという意味において、部落民の「人間」奪還の「宣言」にとどまらず、あらゆる「人間」の「宣言」であり、あらゆる「人間」のための「宣言」であったのでした。
1922年3月3日に全国水平社が創立されて約100年が経ちました。この間、被差別当事者を中心にした運動によって、さまざまな人権に関する法律も制定され、露骨な差別が横行する状況は大きく改善されてきました。その一方で差別の隠蔽化が巧妙に進み、差別問題が自己変革の問題として地域社会の人びと(被差別当事者も含む)の意識に定着したのかというと、ほとんど達成されていないのではないでしょうか。その意味で、かつて「青い芝の会」の横塚晃一さんの「おそらく我々にとっては生暖かく静かな暗闇の時代が来るであろう。」(『母よ!殺すな』生活書院、322頁)と予測したような状況が到来しているように、私には思われます。しかし、このような「生暖かく静かな暗闇の時代」だからこそ、あの全国水平社が創立された時代の希望と情熱、そして困難と痛みを、ふたたび想起することから始める必要があると、改めて強く思っています。