ゆめネットみえ通信
中上健次の可能性―津島佑子の『鳳仙花』論(つづき)
―中上健次と徳田秋声(8)―
『鳳仙花』の世界から迂回した中上健次は、その後、「路地」の英雄叙事詩の語り手として「オリュウノオバ」を発見し、また、『地の果て 至上の時』(1981年)で路地の解体を見届けて忽然と姿を消した英雄「秋幸」の代わりに「中本の一統」を創出して、『千年の愉楽』(1982年)、『奇蹟』(1989年)という題名の小説を生み出しました。このことは中上があれほど礼賛していた「秋声リアリズム」を放棄したことを意味していましたが、「中本の一統」が「淫蕩」にして「高貴な汚れた血」あるいは「他の誰よりも濃い高貴にして澱み汚れた血」と表現されているように、人の血筋をたどることで成り立つ小説の構想は、やがて中上を天皇の容認と賛美へと引き寄せていったのでした。津島さんは、このような『鳳仙花』以降の中上の作品について次のように語っています。
「『鳳仙花』は今、中上健次の多くの作品のなかで例外的な作品として、孤独に取り残されている。彼は『枯木灘』で英雄叙事詩の方法を見いだし、彼に残されたのちの約十年間、ときには強引なまでにそれを継続させた。
そのように彼は選択し、小説を書きつづけた。彼はその方法を彼の「路地」のために守りつづけなければならなかったのだろう。彼の「路地」への愛着は、ほかの可能性を決して許さなかった。彼には、事実、選択の余地などなかったのかもしれない。彼の英雄叙事詩に完結をつけたかのように見えた『地の果て 至上の時』を書きあげても彼は立ち止らず、なおも『日輪の翼』や『讃歌』、『奇蹟』を書きつづけた。いつまでも彼は自分の英雄叙事詩を歌いつづけなければならなかった。彼自身が「路地」の英雄叙事詩そのものとして生きはじめてしまっていたから。その自分を自分の都合で消し去ることはできなかったから。」
中上がいかに「路地」に対する強い愛着を持っていたかは、「私には気違いじみた執着、気違いじみた愛着が熊野の路地という場所にある」(「桜川」『熊野集』講談社文芸文庫、1988年)、あるいは、「路地」は「この私が生まれ育った私のすべての『愛』の対象」(「異界にて」『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』恒文社21、2001年)という言葉にも強く現われています。
こうした「路地」に対する「愛」は、東京に出て故郷を喪失し、「路地でも他でも異人」(「石橋」前掲『熊野集』131頁)であった者が抱いた複雑な感情であり、それは部落解放運動への思いにつながっていました。野間宏、安岡章太郎との鼎談「市民にひそむ差別心理」(『朝日ジャーナル』1977年3月28日。野間宏・安岡章太郎編『差別・その根源を問う 上』朝日新聞社、1977年収録)で、中上は自分自身の話を「若い小説家志望者」のこととして、こう語っています。
「このあいだも、石川青年(1963年5月に埼玉県狭山市で女子高校生が殺害され、冤罪で逮捕された部落の青年・石川一雄さん(当時24歳)のこと―宮本)が獄中で闘ってるのをみてたら、泣けてきたと言うんです。全然関係ないやと思っても、狭山集会のあった明治公園まで行こうと思った。石川青年が無罪になればいいというだけじゃない。みんな一生懸命やっていて、あいつらも絶望的になっているなと思う、それで国電に乗って行こうと思って駅で立ってたら、泣けてきちゃって、やめちゃったらしい。」(同書、211頁)
このように、部落解放運動への強い思いを抱いていた中上は、この鼎談があった翌年に、地元の新宮で「すべての差別やものの怪を引っくり返す」ために「部落青年文化会」を結成し、連続講座「開かれた豊かな文学」や東京から招いたゲスト講師による公開講座の開催、部落の生活史の聞き取りなどの活動を行いました。中上がこのような「文化・文学を読み変える」文化運動を展開しようとしたのは、「部落問題は文化の問題」と考えていたからでしたが、小説家としての自らの活動もそれに連なるものであったと思います。したがって、中上が、「英雄叙事詩を歌いつづけなければならなかった」背景には、津島さんが言うような「路地」への愛着だけではなく、文化運動としての部落解放運動を推し進めるという「志」や「使命感」が存在していたのは間違いないと思います。
しかし、「『鳳仙花』の世界を切り捨て」、「英雄叙事詩の方法」に固執している間に、中上は自身が持っていた多くの可能性を実現させないまま、1992年に46歳の若さで逝ってしまいました。津島さんは「『鳳仙花』を彼が自分の世界から見捨てなかったら、あるいは、もっと長く小説を書く時間が彼に与えられていたら、と想像しても意味のないこととわかっていながら、それでも繰り言めいて思わずにいられないのは、今、彼の残した全作品を前にして、『鳳仙花』の世界を切り捨てた結果、彼がそののちに引き受けなければならなかった
代償の大きさに、私は茫然と息を呑まずにいられないからだ。」と語っています。
津島さんが言うように、「もっと長く小説を書く時間が彼に与えられていたなら」、きっと中上は、開発によって変貌した部落の現実を「秋声リアリズム」によって見つめ直し、自身がいまだ現われていないと言った「部落解放の理念の元に、部落とは一体何なのかという部落論」や「部落共同史」(「生のままの子ら」『解放教育』1983年8月号)を、その作品の底に溶かした小説を書き上げていたのではないでしょうか。
2016年8月、中上が設立した「熊野大学」のスタッフと受講生によって立ちあげられた機関誌『牛王』10号は「中上健次没後20年を越えて」という特集を組みましたが、そのなかに現代日本文学の金字塔と称される大長編小説『神聖喜劇』の作者である大西巨人の「中上健次世にありせば」という短いエッセイが掲載されています。その経緯について、大西の妻・美智子は「熊野大学文集『牛王』の押尾隆編集長から、中上健次没後二十年にあたり原稿の依頼があった。口述筆記を私にさせた。自分で書くのもワープロで文章を書くのもしなくなっていた。」(『大西巨人と六十五年』光文社、2017年)と証言しています。
最後の原稿となったこのエッセイで大西は「仮りに中上健次が、その後も筆を揮いつづけていたとするならば、一葉が『たけくらべ』において『廻れば大門のみかえり柳いと長けれど、お歯黒溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、』と書いた世界を健次独自の書きぶりに、別様の―あるいは一層切実であっかもしれぬ―結実としてもたらすことが出来たであろうか、と私は詮なく想い描く」と語っていますが、中上にはその可能性が確実に存在していた、と私は信じています。