ゆめネットみえ通信

「部落問題文学」としての『縮図』

―中上健次と徳田秋声(5)―

 

 徳田秋声の最後の長編小説となった『縮図』の第一回が『都新聞』に掲載されたのは、1941年6月28日のことでした。秋声の長男・一穂は「『縮図』を新聞に連載したのは、父が71歳の夏のことで、ちょうど米英との戦端が開かれる少し前であり、緊迫せる雰囲気の中にあって、この都会の一隅に、暑さに脂汗をぬぐいつつ、毎日一回ずつ書きつづっていた。仕事に打ち込んだ疲労と緊張の影の深い老作家の姿が、今でも私の目の前にあるようだ。」(「跋」徳田秋声『縮図』新潮文庫、1951年、265頁)と語っています。

 しかしその後、ひとりの芸者の半生を描いた『縮図』は、戦争に向けての世論形成のために思想取締りの強化をはかる内務省情報局から「時局に適したような結末になるように筋を書き換えながら、できるだけ早く終わらせるように」との圧力が新聞社の方にあり、これに対して秋声が「妥協すれば作品は腑(ふ)抜けになる。にわかに立場をくずすわけには行かないから、この際潔く筆を絶とう」と決断したことにより、9月15日の第80回までで中断を余儀なくされました(「あとがき」前掲『縮図』273頁)。

 未完に終わったとはいえ、「構成を主とした作品ではなく、その部分々々を絵巻のように生かした作品なので、それだけに中断されたままでも十分に味わう事が出来る」(広津和郎「徳田秋声論」『広津和郎著作集』第9巻、中央公論社、1980年、426頁)『縮図』は、「秋声文学の辿りつくところを示した素晴らしい傑作」(同前)、「近代日本の最高の小説」(川端康成「解説」『日本の文学9 徳田秋声(一)』中央公論社、1967年、519頁)と評価されました。

 その一方で、『縮図』 には、もう一つの見方があります。岩波書店の雑誌『文学』の1959年2月号は「部落問題と文学」を特集し、その中の「部落問題文学関係目録」に『縮図』が挙げられています。女主人公の銀子の実家が靴屋を営み、銀子自身も、一時期、「部落産業」の代表的なものの一つとして見られていた靴職人であったことがその理由だと思います。

 『文学の中の被差別部落像 戦前篇』(明石書店、1980年)で平野栄久氏が述べているように、秋声の文壇デビュー作が部落差別の問題を取りあげた「藪こうじ」であり、「検閲の圧力で中断した最後の作品、『縮図』の女主人公の銀子が〈部落産業〉の靴職人の徒弟であったのは、秋声と部落のかかわりに、因縁みたいなものを感じさせる」(同書、71―72頁)ものがあります。

 1934年に東京の白山で芸者屋富屋を開業し、そこで秋声と暮らした小林政子をモデルにした『縮図』のあらすじとは、次のようなものです。

 

 女主人公の銀子は、上州(群馬県)の侠客・大前田英五郎の「下っ端」の「やくざ」であった父親と、「油屋が一軒、豆腐屋が一軒、機織工七分に農民が三分という、物質的には恵まれない」越後(新潟県)の山村から「村脱け」した母親との間に生まれた。一家は銀子の誕生直後に上京し、父親が遺産として受け継いだ田地を金にして、柳原で靴屋の店を開業した。

 銀子が14歳になった時、「芸者屋をいやがり、手に職を覚えるつもりで」、蔵前にある大きな靴屋に住み込み、靴製造の職を仕込まれた。16歳の時に、父親が「競馬道楽や賭け事ですった果てに、自転車を電車にぶっつけ、頭脳にけがをしたりして、当分仕事もできなくなってしまった」ために、千葉の蓮池の松廼家いう芸者屋に身を売り、牡丹という名の芸者になった。その土地で栗栖という若い医師と恋愛をしたが破たんし、一年半ほどで帰京し、ふたたび自宅で靴工の仕事にもどった。しかし、父親の持病が治らずに仕事を休みがちとなり、働いていた妹たちも健康をそこねて家で休んでいたので、自ら浅草の「桂庵」(芸者などの周旋業者)を訪れて、千二、三百円の前借でI町(宮城県の石巻)の鈴之家という芸者屋へ住替えをした。

 そこで鈴竜という名の芸者になった銀子は、「土地の富豪」で、「東北では指折りの豪農の総領」であった倉持から結婚を申し込まれたが、倉持の母親から「子息(むすこ)とお前とは身分が違うと分明(はっきり)宣告されたも同様」の話をされ、また、倉持も、豪家の娘で、高利貸として名前の通っている家の娘と結婚したのを機に、一年ぶりに東京に舞い戻った。日本橋芳町の「春よし」から晴子いう名で芸者に出るようになった銀子は、若林という女房もちの若い株屋の妾となったが、急性の悪性の肺炎を患い、自宅で五か月もの間寝た切りの生活を送った。そして、ほとんど健康を回復した銀子が、ふたたび座敷に出るようになったところで、『縮図』は中絶している。

 

 『縮図』は、大正・昭和初期の日本社会の底辺に置かれた少女たちの人生の「縮図」ともいえるもので、そこには無数の銀子が存在していました。広津和郎は、『縮図』の世界の描かれ方について、「その題材から云えば、今までの秋声が取り扱った世界とそう遠いわけではなく、一口に云うと、花柳の巷を彷徨する若い女達の生活を取り扱った愛欲の絵巻に過ぎない。併し強烈な色彩やナマの色彩は一切使わず、淡彩でほのぼのと描いていったその効果は、ちょういと類がない、高雅な美しさである。」(前掲論文、426頁)と指摘しています。

 しかし、靴職人としての銀子を描いたところは、「今までの秋声が取り扱った世界」と大きく隔てており、このことによって『縮図』の「ちょいと類のない、高雅な美しさ」はより一層きわだったのではないか、と私は思っています。たとえば、故郷に帰省する汽車の中で、恋愛相手の栗栖から家の商売を聞かれた銀子は、「そう。靴屋」「私だって靴縫うのよ。年季入れたんですもの。」と語り、栗栖が「君が。女で?異(かわ)ってるね。」と言ったのに対して、「東京に二人いるわ。」と誇らしげに返しています。

 さらにまた、栗栖と別れ、帰京して靴工の仕事にもどった銀子の様子についても、「足を洗った銀子に、一年半ばかり忘れていた靴の仕事が当てがわれ、彼女は紅や白粉をはがし、撥をもった手に再び皮剝包丁が取りあげられた。」「なまじい美しい着物なんか着て、男のきげんを取っているよりも、これがやはり自分の性に合った仕事なのかと、生まれかわった気持ちで仕事に取りかかり、自堕落に過ごした日の償いをしようと、一心に働いた。彼女の造るのは靴の甲の方で、女の手に及ばない底づけは父の分担であり、この奇妙な父子の職人は、励まし合って仕事にいそしむのだった。」と描かれています。

 近世の被差別部落(以下、部落)の生業であった皮革業を歴史的背景としている製靴業は、戦後まで部落の零細業者や職人の手によって支えられていたために、部落を代表する「産業」と見られていました。秋声も文壇デビュー作の「藪こうじ」の冒頭で、製靴業と部落とが密接な関係にあるという認識にもとづいて主人公・父娘の出身部落を描いていましたが、銀子は家の商売が靴屋であること、また自らが靴職人であることに全く劣等感を持っていません。むしろ、女性の靴職人としての誇りをそこから読みとることができます。

 「既成の観念から離れて、その人物の喜怒哀楽を味読し、それを表現して行った。どんな人物にも作者がその人物と同じ高さに立って、或はその人物について行って、その人物の見、感じて行くがままの人生をそのまま客観的に掴み出して見せた」(広津和郎「徳田秋声論」前掲、404頁)秋声だからこそ、モデルの小林政子が抱いていた靴職人としての誇りを見のがさなかったのでしょう。そして、そのことはたくまずして、部落差別と結びついた靴職人に対する偏見を無化する効果をもたらしていると思います。まさに、「秋声リアリズム」の力、ここにありです。

 また、作品の構成においても、今までの生き方と決別して、靴職人という「自分の性にあった仕事」に打ち込む銀子の労働の喜びと生きる張りが描かれている場面の前に、ジャンヌ・ダルクの宗教裁判の最後の法廷一日を描いた映画「裁かるるジャンヌ」を見て、「ちょうどそれが自分と同じ年ごろの村の娘の、世の常ならぬ崇高な姿であるだけに、銀子は異常な衝動を感じ、感激に胸が一杯になっていた。強い信仰もなくはげしい愛国心もない自分には、とても及びもつかないことながら、生来の自分にも何かそれと一味共通の清らかな雄々しさがあったようにも思われ、ジャンヌを見た途端に、それが喚び覚まされるような気持で、のろわしい現実の自身と環境にすっかりいや気が差してしまうのだった。」という感慨を抱いた場面が置かれていることから、銀子の人間の尊厳への目覚めが素晴らしい実感で私たちに強く伝わってきます。

 以前のブログにも引用しましたが、野口富士男氏は「秋聲の作風は極力『説く』ことを避けて『描く』ことを心がけている」(『徳田秋聲の文学』筑摩書房、1979年、17頁)と述べていますが、「『描く』ことを心がけている」「秋声リアリズム」は、反差別・人間解放を主題とする解放文学創造の大きな力になると確信しています。まさに中上健次が述べたように、「秋声リアリズムが、小説の世界の焦点になるのはこれからである」(「自然主義の精神」『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』恒文社21、2001年、112頁)といえるのではないのでしょうか。