ゆめネットみえ通信

「不自由を助け合う」―森まゆみ編『伊藤野枝集』(岩波文庫

 9月9日のブログ「関東大震災の虐殺と現在(2)」で取りあげた伊藤野枝(1895―1923年)の「私は人間が同じ人間に対して特別な圧迫を加えたり不都合をするのを黙って見てはいられないのです」という言葉が表紙に引用されているのに惹かれて、森まゆみ編『伊藤野枝集』(岩波文庫、2019年9月)を取り寄せました。編者の森さんは、「解説」で野枝の人生を、「28年の短い生涯、まさに嵐のようであった。夢見たものは自らの安寧、逸楽ではない。『幸福はたしかに人間を馬鹿にしてしまいます』。野枝が願ったものは、人びとに幸福を許さない社会との徹底的な闘争、そこに生まれる人間の愛情と成長であった。」(本書、431頁)と適確に表現しています。今回は、その野枝の活動と言論が収録された『伊藤野枝集』の中から、創作「白痴の母」と、評論「無政府の真実」を取りあげ、そこに込められている重要な意味について考えてみたいと思います。

 

「障害者殺し」の思想―小説「白痴の母」

 1912年3月、生れ故郷の福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)を出奔した17歳の野枝は、同年10月に雑誌『青踏』に社員として初めて名前が載りました。そして、『青踏』第二巻第十二号(1912年12月号)に掲載された「日記より」の中で、「十重二十重に縛(いまし)められた因習の縄を切って自由な自己の道を歩いて行こうとする私は、因習に生きている、両親やその他の人々の目からは、常軌を逸した、危険極る、道を平気で行く気違いとしか、見えないだろう。」(同書、17頁)という決意を語っているように、因習の打破は野枝の生涯のテーマでした。

 そうした因習の一つとして障害者差別の問題を取りあげた小説が、故郷の今宿村と思われるところを舞台にした「白痴の母」(『民衆の芸術』第一巻第四号、1918年10月号)です。「白痴の母」は、都会から故郷に帰省した女性(野枝がモデル)によって、「私の家とは低い垣根を一重隔てた隣の屋敷の隅にある小屋の中に」住む六十前の「白痴」の「芳公」と、八十過ぎの「その母親の老婆」(隣の婆さん)のことが語られます。そのあらすじは、次のようなものです。

 

 村の中で、芳公は、子どもたちから馬鹿にされたり、追っかけられることはありましたが、「力だけは驚くほど持っていますので、よく米搗(つ)きや山から薪を運ぶ仕事などに使われていました」。婆さんと芳公は、芳公が働いて来る僅かな金に貯蓄した分をたして、「他人の世話にはなるまいと」と誰の世話にもならずにすごしていました。

 ある時、からかわれたことを怒った芳公が子どもを追いまわして、一番後から鎮守の石段を降りようとしていた子どもを力まかせに突き落としてケガをさせてしまいました。抗議に来た子どもの母親(内儀さん)と、隣の屋敷の主人に対して、婆さんは、「とんでもない、申しわけのない事をしました。ああいう奴の事ですから。何ともしようがありません。どうぞ旦那、彼奴の体なんかどうなってもかまいませんからこのおかみさんの得心のいくように存分に一つお願いいたします。」と非常にはっきりと云いましたが、「内儀さんかせ予期したようにもしくはのぞんだように鄭重な、または嘆願的なお詫びの言葉は連ねませんでした」。

 翌日、一晩中行方のしれなかった芳公を警察が保護し、夕方に隣の屋敷の主人が駐在所から連れて帰ってきました。婆さんは、竹きれらしいもので三つ、四つ続けざまになぐりつけ、それを制止しようとした隣の主人に「旦那どうぞお放し下さいまし、私はこの野郎を片輪にしなければ申し訳が立ちません。警察じゃ馬鹿だと思って許して下さっても、他所様のお子供衆を片輪にして私がこれは馬鹿ですからと済ましておられません。馬鹿だからこそなお私はあの親御さんに顔が上がりません。これ!芳!貴様はな 少しばかりからかわれたと云って腹を立って他所様の子供衆を片輪にするくらいの根性骨があるなら何故首でも縊って死んでしまわない。解らないか!解らないか!解るまい、貴様には解るまい!俺が片輪にしてやる!ここへ来い、ここへ来い!打って打って、打ち殺してやる!」

 そのようなことがあったので、芳公はしばらく婆さんかの傍からはなされて他へやられたのでしたが、その三日目の朝、全く身体の自由を失っていた婆さんは「その枯れた幽霊のような体を裏の松の木に吊るしていたのです。どうしてそこまで這い出していったかさえ疑問にされるほどの体で、彼女は高い枝にその身体を吊した紐をかけていました。人々は驚嘆の眼を集めて一様にその高い枝を見上げました」。

 

 芳公が婆さんの傍から離されたのは、以前に、石屋に嫁に行った婆さんの娘が病気になって、狐につかれたという噂が拡がり、婆さんが狐を追いだすために、娘から「一切の食物を奪い」、「夜昼責め続け」、一年ばかりそういう事が続いた結果、娘が死ぬということがあったので、隣の主人らが危惧したからだと思われます。

 それでは婆さんは、芳公に「何故首でも縊って死んでしまわない。(略)俺が片輪にしてやる」と言ったり、娘が死ぬまで折檻したのでしょうか。また、全く身体の自由を失っていたにもかかわらず、なぜ婆さんは、高い枝に身体を吊るして自殺したのでしょうか。

親による障害者殺しについて、障害者差別と闘う脳性まひ者の組織「青い芝の会」の横田弘さん(1933―2013)は、「障害を持った家庭がどれだけ世間から白い眼で見られているのか。障害児を持ったという、ただそれだけで、それだけのことでその家が何か悪いことをしたのだ、という眼で見られる。そんな事実を私たちは長い間、身をもって経験しつづけているのである」、「私たちは加害者である母親を責めることよりも、むしろ加害者をそこまで追い込んでいった人々の意識と、それによって生みだされた状況をこそ問題にしているのだ」(『[増補新装版]障害者殺しの思想』現代書館、2015年)と語っています。

また、同じく「青い芝の会」の横塚晃一さん(1935―1977)は、「親は『本来あってはならない存在』をつくり出した責任を感じてか、障害児に関する全てを一心に引き受けようとする」、「我々の運動が真に脳性マヒ者の立場に立ってその存在を主張することにあるならば、まず親を通して我々の上に覆いかぶさってくる常識化した差別意識と闘わなければならず、そのためには自らの親の手かせ足かせを断ち切らなければならない。」(『母よ!殺すな』すずさわ書店、1975年)と語っています。

障害者に対する施策がほとんど何もなかったといってよい戦前の状況の下、このような障害者は「本来はあってはならない存在」とする常識化した地域社会の差別的な障害者観と、それを内面化した婆さんの意識が、婆さんを「そこまで追い込んでいった」のでした。そして、このような差別的な障害者観は、「意志疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不必要な存在である」として入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた2016年7月の相模原障害者施設殺傷事件が示しているように、決して過去の因習ではなく、今日においても根強く存在しています。

 そうしたことからすると、地域社会の差別意識や殺される側(差別される側)の問題、差別的な障害者観が形成されてくる歴史的な経過の問題などが描かれていないという限界があるとはいえ、100年以上も前に、障害者を生んだ母親の葛藤の問題を取りあげた「白痴の母」の問題は、今日も色あせていないのではないでしょうか。

 

「不自由を助け合う」―評論「無政府の事実」

 この「白痴の母」(1918年10月)と、以前紹介した小説「火つけ彦七」(1921年7月)で地域社会(共同体)における差別の問題を取りあげた野枝でしたが、評論「無政府の事実」(第三次『労動運動』第一号、第二号、1921年12月26日・1922年2月1日)では共同体の再評価を行っています。野枝が述べていることをおおまかに要約すれば、次のようになるでしょう。

 

 故郷である今宿村の「松原」は60~70戸の集落で、6つの「組合」に分かれており、そして、この6つの「組合」は、火の番、神社の掃除、修繕、お祭りの他に、道路の修復などというような、一つの字を通じての仕事には聯合する。この「組合」は行政とは別物の相互扶助の組織で、「用のない時には、何時も解体している。型にはまった規約もなければ、役員もない。組合を形づくる精神は遠い祖先からの『不自由を助け合う』という事のみ」で、冠婚葬祭、ある家に病人が出たとき、子どもが生まれる時など、「何でも人手が必要だという場合には何時でも文句なしで組合で引き受ける」。

 「組合の中では村長だろうがその日稼ぎの人夫であろうが、何の差別はない。村長だからといって何の特別な働きも出来ないし、日傭取りだからといって組合員としての仕事に欠ける処はない。威張ることもなければ卑下する事もない。」意志決定は、相談してもすぐに意見が一致しない場合は、幾晩でも、熱心に話し合い、皆が納得のいく結論を出すという共同一致の原則が貫かれた。

 このような「不自由を助け合う」ことと共に、組合で大切にされるのは「村の平和を出来るだけ保護しようとする」ことであった。「人間同士の喧嘩でも、家同士の不和でも、大抵は組合でおさめてしまう。泥棒がつかまっても、それが土地の者である場合はもちろん、他所の者でも、なるべく警察には秘密にする」。それは大抵の人が「盗みをするという事はもとよりよくない。しかし、彼等を監獄へやった処でどうなろう。彼等にだって子供もあるし、親類もある。そんな人達の迷惑を考えてやらねばならぬ。彼等も恥を知って居れば、組合の人達の前であやまるだけで充分恥じる訳だ。そしてこの土地で暮らそうという気がある以上は、組合から仲間はずれになるような事はもう仕出かさないだろう。」と考えているからだった。

 こうした「権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活」は、ある一地方のみが持つ特異なことではなく、「万事に不自由勝手な生活を営んでいる田舎の人にはどの地方の、どんな境遇に置かれている人にも一様に是非一般的な性質のものだ。そしてあらゆる人間の生活が、是非そういう風でなくてはならぬという私共の大事な理想が、そこにしっかりと織込まれている」。

 

 野枝が見た村落共同体に「しっかりと織り込まれている」「相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活」とは、大杉栄の訳したクロポトキンの「相互扶助論」に大きな影響を受けた民俗学者・宮本常一が『忘れられた日本人』(未来社、1960年/岩波文庫、1984年)の中で描いた日本の共同体の中に保持されてきた結衆の様式でした。また、役人や巡査などの公権力の介入を許さないで「村の平和を出来るだけ保護しようとする」、「真の自治精神から来た」ものとは、歴史家の網野善彦が「原始のかなから生き続けてきた」「無縁の原理」や「アジール(権力の手の及ばない状態・場所)」と表現したものでした(『無縁・公・楽―日本中世の自由と平和―』平凡社、1978年)。

 その意味で、この点に関しても野枝の先駆性とその意義は積極的に評価されるべきであり、森まゆみさんが「解説」で「野枝がよく用いる言葉だか、彼女は『ずんずん』『どしどし』進んでいった。野枝がもっと長く生きたなら、どんな遠い所まで行けたか。伊藤野枝は大杉栄とともに、長生きさせたかった日本人である。」(本書、430―431頁)と述べているのと、同じ思いを私も強く持ちました。

 今日、沖縄の人々の願いを無視して「粛々と辺野古移設を進める」という言葉を平然と口にできる菅官房長官が首相となって、「自助」の必要性を強調し、野枝が夢見た「不自由を助け合う」社会とはまったく逆の「困っている人を助けない」社会像を掲げています。

 先の「青い芝の会」の横塚晃一さんは、理想とする社会について「障害者を取り囲む社会の一人一人が障害者の問題を我が事として考え、その地域にいる障害者を仲間として隣人として受け入れ、折々は言葉をかけ、暇があれば下着一枚でも洗ってやるような精神風土がなければならない。いや、そうではなく、そういった精神風土を我々の力で作っていかなくてはなるまい。」(前掲『母よ!殺すな』)と、野枝と同様のことを語っています。私自身も、この『伊藤野枝集』を読んで、そういった「精神風土」を作っていくために、もはや「ずんずん」「どしどし」というわけにはいきませんが、自分なりのやり方で進んでいかなければならないと改めて痛感しました。