関東大震災の虐殺事件と現在(2)―「多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジャスティス』を拾ひ上げる事」(伊藤野枝)

 

「甘粕大尉公判・聴取書」から

 関東大震災の混乱に乗じて虐殺された大杉栄・伊藤野枝のことを調べるために、『黒旗水滸伝』大正地獄変 下巻(竹中労著/かわぐちかいじ画、皓星社、2000年)を読んでいたら、大杉と野枝を虐殺した犯人である甘粕正彦陸軍憲兵大尉の「公判・聴取書」が引用されており、甘粕は、野枝を殺害する前に次のようなやりとりがあったと証言しています(同書、234―236頁)。

   午後9時15分頃、隊長室にゆきましたら、のえは壁に拠った所で、右肘を机に乗せて椅子に腰を掛けておりました故、直ちに絞殺の手 

  段をとることができず、私は室内を歩行しながら、「戒厳令が布かれてこのような馬鹿なことがある、と思っているだろう」といいましたれ

  ば、のえは笑って答えませぬので、「軍人など馬鹿に見えるであろう」とさらに申しましたるところ・・・

   (以下、問答体にあらためる)

   野枝「否え、兵隊さんでなければならぬように云う人達も、世間には多勢いるではありませぬか」

   甘粕「自分達は兵隊で、警察官の役目もしておるから、君達には一番嫌な人種に見えるであろう」

   野枝「(笑って答えず)・・・」

   甘粕「この大震災で今より一層の混乱に陥ることを君達は期待しているのではないか」

   野枝「そう思われるのは、考方(かんがえかた)が違うので致方ありません」

   甘粕「どうせ、斯様な状況(震災と憲兵隊逮捕の件)を、原稿に書く資料にするのであろう」

   野枝「ええ、既に本屋から二、三申し込みを受けております」

 これまで野枝に関しては、大杉栄と一緒に語られる無政府主義者・フェミニストという程度の知識しかありませんでしたが、この甘粕の証言に示されている野枝は、暴力による民衆弾圧の権化ともいうべき憲兵隊の大尉を前にしても、決して臆してもおらず、かといって虚勢も張らず、実に堂々としているように、私には思われました。

 1916年(21歳の時)から特別高等警察の「特別要視察人 甲号」として警察の尾行がつく身であったとはいえ、憲兵隊や警察を前にして、野枝のような態度をとれるかと聞かれたら、即答できる人は少ないと思います。そうしたことから、私は、何物にも臆することがない野枝の態度の奥には何が秘められているのか、また、それがどのように形成されたのかということについて、深い関心を持ちました。今回は、野枝の作品を取りあげ、彼女の信念や覚悟とその現在的意義について考えてみたいと思います。

 

「背負い切れぬほどの悪名と反感とを贈られて」―小説「転機」

 先の問題の重要な手がかりとなるのが野枝の「転機」という小説です。これは、大杉と野枝が始めた思想文芸雑誌『文明批評』1918年1月号、2月号に掲載されたもので、1916年12月10日に大杉と一緒に栃木県の旧谷中村を訪れた時の体験を基に書かれルポルタージュともいえるものです。野枝が谷中村問題に関心を持ったのは、1915年1月末に野枝・辻潤夫妻の家に社会運動家・無政府主義者の渡辺政太郎、若林八重夫妻が来訪し、足尾銅山鉱毒事件(明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山から流れ出た廃液(鉱毒)が原因となった公害事件)の話を聞いてからで、12月10日という日に足尾鉱山の鉱毒の水を貯める遊水地にされた旧谷中村を訪ねたのは、残留している農民の立ち退きが翌日に迫っていると聞いたからでした。

 野枝と大杉が旧谷中村を訪れた一か月ほど前、辻潤と離別していた野枝に大杉の愛情が移ったのを嫉妬した神近市子が大杉を刺した「日陰茶屋事件」が起きており、以後、野枝と大杉は多くの新聞雑誌で非難され、孤立していきます。そのことを野枝は、小説「転機」で「こうして、私は恐らく私の生涯を通じての種々の意味での危険を含む最大の転機に立った。今までの私の全生活を庇護してくれたいっさいのものを捨てた私は、背負い切れぬほどの悪名と反感とを贈られて、その転機を正しく潜り抜ぬけた。私は新たな世界へ一歩踏み出した。」(青空文庫、21頁)と書いています。このように、「転機」は、野枝が自分の気持ちに正直に生きる「覚悟」を宣言した小説ともいえますが、そこには、なぜ「新たな世界へ一歩踏み出した」のかがはっきりと描かれています。

 たとえば足尾鉱毒問題を教えてくれたМ夫妻が、旧谷中村の残留農民の貧困や迫害に関して「もうずいぶん長い間どうすることもできなかったくらいですから、この場合になっても、どう手の出しようもないから、まあ黙って見ているより仕方はあるまいというのがみんなの考えらしいんです。」(11―12頁)と話したことについて、「しかし、私には、どうしても、『手の出しようがない』ということが腑に落ちなかった。とに角幾十人かの生死にかかわる悲惨事ではないか。何故に犬一匹の生命にも無関心ではいられない世間の人達の良心は、平気でそれを見のがせるのであろうか。手を出した結果が、どうあろうと、のばせるだけはのばすべきものではあるまいか。人達の心持ちは『手のだしようがない』のではない『手を出したってつまらない』というのであろう。」、「私はМ氏の話に感ずるあきたらなさを考え詰める程、だんだんに憤激と焦燥が湧き上がってくるのを感じるのであった。」(12頁)と述べています。

 また、М夫妻が帰った後も「絶望的なその村民達の惨めな生活」を想像することに没頭していたら、夫のTが「なんだ、まだあんなことを考えているのかい。あんなことをいくら考えたってどうなるもんか。それよりもっと自分のことで考えなきゃならないことがうんとあらあ。」(14頁)と発言したことに対して、「他人のことだからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生まれた人間ですもの。私たちが、自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目に遇うまいとしているに違いないんですからね。自分自身だけのことをいっても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だって、やはり困るんですもの。」(14―15頁)と反論しています。

 このように、野枝は、困難な立場に置かれた人たちが受けている「不条理の横暴はよそごとではない。これをどう見のがせるのであろうか」(14頁)という強い気持ちを持っていました。野枝は、このことを別の作品では「多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジャスティス』を拾ひ上げる事」(「乞食の名誉」1920年5月28日)と表現しています。

 革命家のチェ・ゲバラは、「子どもたちへの最後の手紙」(1965年)の中で「世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、痛みを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です」と語っていますが、野枝もまた、「革命家において、最も美しい資質」を持った人間だったといえるでしょう。

 

「呪い心を培った土地に呪いの火を」―小説「火つけ彦六」

 1919年10月5日、労働者団体の友愛会婦人部主催の婦人労働者大会が東京・本所の業平小学校で開かれ、第一回国際婦人労働会議の代表選出をめぐり紛糾しました。閉会後、野枝が控室に闖入(ちんにゅう)し、政府代表の婦人顧問の田中孝子(渋沢栄一の姪)に「婦人労働者の経験のないあなたに、婦人顧問をつとめる資格はないのだ。一刻も早くおやめなさい。」と抗議しました。このように、「ことばとおこなひを分かちがたき、ただ一つの心を」(石川啄木「ココアのひと匙」1911年6月15日)持っていた野枝は、1921年7月15日に、被差別部落民(以下、部落民と略す)がうけてきた「不条理の横暴」をテーマにした小説「火つけ彦七」を『改造』(第三巻8号)に発表しました。「火つけ彦七」(塩見鮮一郎編『被差別小説傑作集』河出文庫、2016年収録)のあらすじを作品での表現をまじえて要約すると、おおよそ次のようです。

   話は1900年の初め頃、北九州のある村はずれに一人の年老いた乞食が生き倒れになっていたことから始まります。

   この乞食は、その村の片隅にある被差別部落(以下、部落と略す)で生まれた彦七という男で、小さい頃から村の子ども達から差別さ 

  れてきました。やがて彦七は「村人達に卑しめられるのが、訳もなく悔しく、馬鹿馬鹿しいと云う気持ちがますます激しくなって来」て、自

  分の家をぬけ出して、城下町に行き、瓦焼き場の火を燃やす仕事にありつきました。そして、「生まれて初めて、彼は其の時に普通の人

  間として他の職人達と交際が出来たのです」。

   ある時、町に奉公に来ている旧知の村の者達に出会い、彼らから差別発言を受けたので、「物も云わずにその連れに打ってかかり」、 

  相手が一かたまりになって立ち向かってくると、下駄で「相手の横っ面を手ひどく打ちました。」しかし、彦七は倒され、袋叩きにあい、彼ら

  は「彼が虫の息になるまでいじめぬいて引き上げていきました。」

   翌朝、彦七が放置されているのを聞いた瓦屋は、彦七を引き取りに来ましたが、彼が部落民であることを知ったので、彦七を「死にかけ

  た犬ころのように、納屋の前の大地に布いたムシロの上にころが」しました。

  彦七は「俺が、あの部落にさえ生まれて来なかったら、昨夜のような目に遇う事もなし、また、こんな扱いを受ける事もないのだ。何故俺 

  はあんな村に生まれたのだ?だがあの村には何か因縁があれば、ソコで生まれた者が迫害されねばならないのだ…彦七はガンガン鳴 

  る頭の中で繰り返し繰り返しそんなことを考えているのでした。」

   そして、「死んでもいい、死んでもいいから、こんな処は出かけよう。そして村へかえるのだ。そうして今に見ろ何かで仇うちをしないでお

  くものか此の恥と苦しみをこれから出来るだけ貴様達に背負わしてやるぞ。」と、復讐心に燃えながら部落へ帰り、四年間独居生活をし、

  早朝から田畑の仕事、夜は草履やわらじ作りなどをして憑かれたように小金を貯め、町に出て金貸しを始めました。

   「彼は世間の人間を出来るだけいじめる為に金貸しをはじめたのですから、世間の非道な、ただ金に目がくらんでる金貸しの惨忍より 

  も、もっともっとひどい惨忍を平気で重ねました。」しかし、彼の「無情な仕打」によって生きる途を閉ざされた貧乏な鍛冶屋の妻から報復

  のために火をかけられ、彦七はすべてを失いました。やがて、彦七は「今までの金による復讐を、今度は魅力にとんだ火焔と取り換え」、

  「長い間、彼方此方(あっちこっち)を徘徊しながらその呪いを止めなかったのです。」

   「彼が生まれた村に帰って来たのは、最後の思い出に最初の彼れ(ママ)の呪い心を培った土地に呪いの火を這わす為でした。」そし

  て、その村で三回にわたって放火をして逮捕されましたが、彦七は「息の根が絶えるまでは、此の火をもっての呪いを止めないと云っ

  ているというのです。」

 このように、「火つけ彦七」は、差別する側の「惨忍さ」と差別される側の屈辱、苦しみ、呪い、復讐を、彦七の立場から描いたもので、彦七の生まれ育った部落のことや差別する側の人たちのことが十分に描かれていない等、小説としては未熟なものといえるでしょう、しかし、困難な立場に立たされている人達たちの痛みに共感した野枝にすれば、この小説は差別された人間の怨念や復讐の情念を描き切ることに主眼を置いたもので、そんなことは問題ではなかったのでしょう。

 この「火つけ彦七」について、宮崎芳彦氏は「伊藤野枝は全水(全国水平社―宮本)機関誌『水平』創刊号(1922.7)の巻末に『火つけ彦六』を寄稿している。おそらく事実に材料をもとめた、迫力ある短編小説である。それは平野小剣の縁で掲載された。」(宮崎芳彦遺稿『平野小剣 民族自立運動の旗手』宮崎芳彦遺稿刊行会、2020年、230頁)と述べ,「平野小剣の縁」について、次のように語っています(同書、52頁)。

   『信友』20年10月号所載の平野小剣「俺の追憶―同盟罷工一周年に際して」は、信会友に組織された各印刷工がそれぞれの会社単 

  位で8時間労働制などを要求して同盟罷工(ゼネラルストライキ)を行い惨敗した、その回想評論である。(略)そのとき平野は信友会の

  幹部であり、代表的な印刷会社三秀社の組合リーダーであった。同文に山川菊枝、伊藤野枝が登場している。―〈持久戦に入ったのは 

  罷工以来五六日後からであった。/我が三秀舎罷工団事務所には来訪の人、見聞の人で毎日出入が多かった(。)其中には山川菊 

  枝、伊藤野枝さん等もあった。夫等(それら)の人々の間には色々好い話もあった。ゴマ塩の握り飯を食ひ始めたのも此の日あたりから

  であった。野枝さんは子供を連れて二三日訪づれて色々女工さんと話と(ママ)されて居た。〉

   1919年には山川菊枝、伊藤野枝、平野小剣が労働争議の現場で共闘を組む、このような事態があったのである。

 宮崎氏が述べているように、野枝と平野は1919年11月頃には旧知の関係でしたが、その平野が部落解放運動に公然と踏み出したのは、1921年2月13日に開かれた帝国公道会の第2回同情融和大会で「檄―民族自決団」というビラを蒔いたことからでした。平野の思想の根底にあったのは、「祖先代々が受けてきた奴隷的な賤視と被虐、そこからの呪詛、激怒、復讐の感情」(同書、225頁)でした。その意味で、「火つけ彦六」は、このような平野の思想に共鳴した作品ともいえます。そのことは、大杉が主幹の『労働運動』第二次第三号(1922年3月15日)の水平社創立支援特集の中に、平野の思想が簡潔に表明されている「血潮の躍動」という文章が掲載されていることからも確認することができます。このように、野枝の小説「火つけ彦七」は、翌年の3月3日の全国水平社創立の「序曲」としての意味を持っていたといえるのではないでしょうか。

 

「かれらに与えられたわずかな時間を超えて」

 関東大震災から2週間ほど経った1923年9月16日、大杉栄と野枝、大杉の甥・橘宗一は東京麹町の憲兵隊本部内で殺害されました。大杉38歳、野枝28歳、橘宗一は6歳でした。半世紀ぶりに発見された「死因鑑定書」について、『朝日新聞』1976年8月26日付によれば「鑑定書は①大杉氏と伊藤さんの二人は肋骨(ろっこつ)などがめちゃめちゃに折れ、死ぬ前に、ける、踏みつけるなどの暴行を受けている、との新事実を明らかにしたうえ、②死因は、三人とも首を腕などの鈍体によって絞圧、窒息せられたもの(扼殺=やくさつ)としている。」と報道しています。つまり、大杉と野枝は「烈しく抵抗して、『蹴ル、踏ミツケル等』複合した暴力を加えられ、死を容易ナラシメル」状態に置かれて、絞殺されたのである。」(前掲『黒旗水滸伝』大正地獄変 下巻、264―265頁)。

 野枝や大杉が憲兵隊によって暴行虐殺されたのは、彼らの理念が、権力を持った人間の思い描く日本という国に対する理念と真っ向から対立していたからでした。その理念とは、同じ生きる権利を持って生まれた人間が圧迫を加えられたり、不公平な扱いをされたりするのを黙って見過ごすことはできない、という強い「覚悟」に基づいた無政府共産主義でした。

 野枝や大杉らが虐殺されてから、やがて100年になろうとしています。今日においても、相変わらず「多くの人の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジャスティス』」が数多く存在しています。

 ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者のハンナ・アーレントは「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうこと」(『暗い時代の人々』ちくま学芸文庫、2005年、10頁)と自らの確信を語っていますが、野枝や大杉がともした光も、「地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて」、「大事ジャスティス」を照らすために現在も輝き続けていると、私は確信しています。