「累累たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」―松阪市

の市長、教育長の「回答書」

 

日本社会の「縮図」

 これまでのブログにも書きましたが、私は現在、「大西巨人と部落差別問題―『黄金伝説』と『神聖喜劇』」という評論(文芸誌『革』第33号、第34号掲載予定)を執筆しています。戦後文学を代表するといわれている長編小説『神聖喜劇』(全5巻)は、大西氏が「軍隊生活であった味わった理不尽さとともに、それらのものに、意志と能力の限りを尽くして戦っていこうとする人間の姿を描き出そうと試みた」(「神聖喜劇で問うたもの」『歴史の総合者として―大西巨人未刊行批評集成』幻戯書房、2017年)ものでした。

 そのような「軍隊生活であじわった理不尽さ」を象徴するものの一つとして小説の中で取りあげられているのが、軍隊における「知りません」禁止、「忘れました」強制の慣習の問題で、「それは、上級者は下級者の責任をほしいままに追求することができる。しかし、下級者は上級者の責任を微塵も問うことはできない、というような思想であろう。(略)それならば、『世世天皇の統率し給所にぞある』わが国の軍隊とは、累累たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構ということになろう」(第二巻、207―209頁)と推理されています。

 日本の軍隊について、大西氏は『俗情との結託』というエッセイの中で、「その真意においては、決して『特殊の境涯』でも、別世界でもなく、最も濃密かつ圧縮的に日本の半封建的絶対主義性・帝国主義反動性を実現せる典型的な国家部分であって、しかも爾余の社会と密接な内面的関連性を持てる『地帯』であった。」と書いています。つまり、「累累たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」という問題は、戦争中の軍隊における一時的な病理現象といったものではなく、日本国家、日本社会の縮図といえるものであったのでした。この問題が現在においても存続していることは、森友学園問題が「日本の敗戦を招いた『無責任体系』の再来を示す統治構造の危機」(田中良紹氏ブログ)と指摘されていることからも確認できると思います。

 しかし、このような統治構造のゆがみは、「日本社会の縮図」を現したものですから、政府に限ったものではなく、日本社会のあらゆる所に存在しています。松阪市職員の倫理問題に対する私の申し入れへの松阪市の竹上真人市長、中田雅喜教育長の対応に、その最近の例を見ることができます。

 

当時の人権問題をめぐる状況

 私が申し入れた松阪市職員の倫理問題とは、2013年から2014年にかけて起きたことですが、そのことに触れる前に、この問題と深く関連している当時の松阪市における人権問題をめぐる状況について、簡単に触れておきます。

 2013年という年は、私が被差別部落(以下、部落)の仲間とともに、部落解放を進める運動団体である部落解放同盟松阪支部(以下、松阪支部)を結成してから30年目にあたっていました。この間に、部落内外のさまざまな人たちの支援もあって、松阪の人権問題における松阪支部の位置は、「絶対的少数野党」から「与党」的なものとなり、当初掲げていた目標や要求もほぼ実現していました。

 私自身は、差別問題に関しては何らかの意味ですべての人が当事者であると考えていたので、松阪支部の活動の中心を市民運動としての部落解放運動、人権運動の創造に置いていました。今ふり返ると、2003年3月のイラク攻撃反対集会とデモ行進(市民250人が動員ではなく自発的に参加)、2004年7月のゆめネットみえの三重県内で最初の人権NPOとしての法人資格の取得、2006年の国際的な人権水準に適合した松阪市人権のまちづくり条例の制定等がそうした運動の最盛期であったと思います。しかしその後は、松阪支部の運営・活動がほとんど私個人の請負といった状態が一層強まっていったことにより、組織を維持していくことが活動の目的といった状況に陥っていました。

 こうした中で、松阪支部内部における役員同士の人間関係も、初期にあった差別や不正義に対する怒りの共有と共通の生活体験に基づく心の繋がりから、松阪支部の影響力が大きくなるのと並行して、利害関係中心のものへと変化していきました。こうして市民運動に共通する課題でもある様々な利権がらみの問題が組織内部で生じ、内側から足下をすくおうとする人たちが出現することになっていきました。

また、教職員組合等との共闘(人権NPO法人・松阪地区同和教育推進協議会。以下、松同推と略)においても、結成からすでに25年近く経ち、少なくとも当初は人間性への信頼感にもとづいて繋がっている部分がありましたが、組合役員の世代交代等によりそれはなくなり、会議や集会の時だけの形式的なものへと変化していました。2013年当時、私は、部落解放同盟松阪支部支部長と二つの人権NPOの実質的な責任者の立場についていましたが、それはこのよう組織と活動の衰退を反映していたのでした。

 一方、松阪市行政との関係においては、先に触れました松阪市人権のまちづくり条例の制定とそれに基づいて2009年に策定された松阪市人権施策基本方針と松阪市人権教育基本方針により、その完全実施を求めるのが行政交渉の中心課題になっていました。しかし、その2009年に、私たちと協調路線を採っていた下村市長が選挙で敗れ、部落解放同盟との関係の見直し、部落解放同盟が関連している「松阪の部落史」編纂事業の廃止等を標榜して立候補した山中氏が当選したことにより、その関係は徐々に変化していきました。

私たちは、山中市長との最初の交渉で従来通り人権条例や基本方針を守って松阪の人権行政を推進していくこと、「松阪の部落史」編纂が部落差別解消のために重要な事業であることを確認しましたが、実際にはそれは口先だけで、腹の底では立候補時の「公約」を実行する機会を窺っているように、私には思えました。さらに、このような市長の腹積もりと歩調を合わせるかのように、松阪市議会においては、私を積極的に応援してくれていた部落出身の有力議員がすでに死去していたこと等から、日本共産党に所属する市会議員が議会の開催ごとに部落解放同盟攻撃を強めるようになっていました。

 このような中で、組織としての活動は、もう一度原点にもどって人権NPOで行なっていたような様々な困難な人たちに対する「相談活動」を中心に据えること、個人的には大学以来細々ながらも継続させてきた部落史の研究を本格的に行うこと等を、今後の方針にしようと決意し、2013年に60歳を迎えることから、これを機に、これまでの自分の歩み・出遇いや組織的な活動、研究をまとめようと思いました(2013年11月に、明石書店から『未来へつなぐ解放運動 絶望から再生への〈光芒のきざし〉』といたタイトルで出版されました)。そのために、原稿の執筆等に専念できる体制を整えようとして、人権NPO支援のために「ゆめふる21」という私たちの事務所に派遣されていた松阪市教育員会人権まなび課の非常職員A氏にこれまで以上の支援を要請しました。しかし、そのことがのちに私の人生を大きく変えることになるのでした。

 

松阪市職員の倫理問題

 松阪市職員A氏の倫理問題とは、次のようなものです。(以下、事実関係については、この問題に起因した名誉棄損に関して争った松阪市の裁判で認定された事実をふまえて記しますなお、この裁判の判決については、法律雑誌『判例時報』2400号(2019年5月)に掲載されています。)

 

 松阪市の非常勤職員(人権教育推進員。のちに人権学習コーディネーター)であったA氏は、松阪市に雇用される以前は、小学校の教頭を早期退職した後、部落解放同盟三重県連合会事務局(以下、三重県連)に勤務していました。松阪市近郊の解放同盟の支部に所属する同盟員でもあったA氏とは、私が三重県連の顧問や副委員長であった頃からの顔見知りで、三重県教育委員会事務局に勤務していた時に補助金の申請業務等を行っていたこと等を聞いており、行政の事務や経理を熟知している人物として評価していました。

松阪市に雇用されてから、A氏は「ゆめふる21」に常駐してNPO支援の業務を行っていましたが、それに関連して松同推の委託事業も含めて経理全般や松阪市行政との連絡調整も担当していました。私はこの時期、松阪支部や人権NPOの運営の他にも、原稿執筆、講演や研究活動で多忙を極めていたことから、ほとんどの事務をA氏に任せきりにしていました。

 2013年6月14日、松阪市議会において、共産党議員が「同年5月の松同推の決算報告には、松阪市からの人権啓発冊子の受託事業の決算報告がなされていない」旨の発言がありました。このことで教職員組合などの共闘団体に迷惑がかかることを懸念して、私は決算内容に何ら不備・不明瞭な点がないことを示すために、同年6月24日に開かれる松同推の理事会において、委託事業の決算額の総額を提出することにしました。

 その対応に関してA氏に相談したところ、A氏は、松同推から松阪市に対して決算報告書を提出していないことを認識していながら、私に対して、「松阪市に見積額と同額の決算報告書を提出している。理事会へ報告する決算報告書も、松阪市に提出する場合と同様に、見積額と同額の決算報告書を提出した方が良い」という指示を行いました。

 A氏を全面的に信頼していた私は、このA氏の指示に従って理事会に見積額を決算額とした報告書を提出したところ、同年11月の松同推の非公式の各団体代表者会議で、その提出内容をとらえて、実際の決算額と異なる金額が決算額として報告されているという非難の声があがりました。その会議にはA氏も出席していましたが、一切沈黙して自らが行った指示については全く話しませんでした。

このことを不審に思った私は、同年12月18日にA氏と会う機会があった時に、A氏の目の前で、松阪市の当時の委託事業の担当者に電話をして、「Aさんに決算報告書の提出を求めているのかどうか」を確認したところ、「決算報告書の提出を求めたことはない」という答えが返ってきました。

 このことを聞いた私は、A氏が嘘の報告を私にしていたことを知り、強い口調で「『Aさんに提出を求めたことはない』と言っていた」と告げると、A氏は手提げカバンを忘れるほど慌てながらその場を立ち去りました。この後、私が改めてA氏と会って話をし、「松阪市に見積額での決算報告書を提出していないのなら、実際の支出をそのまま報告すれば、何のトラブルなく済んだ」旨を指摘すると、私に対して「すいませんでした。」と謝罪をしました。

 その後、同月24日にも、A氏と松阪市教育委員会会議室において話し合いをし、「実際には決算報告書の提出を求められていなかったにもかかわらず、なぜ見積額と同額の決算報告書を提出しているのか」と問い質したところ、A氏は「混乱の責任をとって辞めます。」と述べました。これに対して、私は、松同推内部での問題の円満解決をはかるためには、辞職するのではなく、理事会に提出した決算報告書の経緯に関する説明を公的な場で行なうことをA氏に求めました。そして、A氏は、見積額と同額の決算報告書を理事会に提出するよう助言したことで、私の社会的信用が失墜したことを認め、同月26日に予定されていた理事長への説明や、その他の団体への説明責任を果たすと約束しました。しかし、その後、A氏は、私の前に二度と姿を見せず、説明責任を果たすという約束を実行しないまま、年度途中の同年1月31日付で退職届を提出していました。

 私は、A氏が約束を実行しなかったので、2014年2月3日に、A氏の所属する人権まなび課課長と話し合いを持ちました。そして、「A氏の行為が私への不審を招き、松同推内部の混乱が広がっている」ことを説明したうえで、「監督者としてA氏の業務内容を全く把握しておらず、管理責任を怠っていたこと」を確認し、「この件に対する調査を行うこと」で合意しました。しかし、その後、それが実行されることはありませんでした。

 また、この話し合いの時に、中田雅喜教育長(当時は学校支援課参事)が同席しており、「当然、人権まなび課として、A氏に直接会って事実確認するべきや。もし何かあったら、私も相談にのらせてもらう。」と人権学び課課長に助言していました。しかし、A氏に対する事実確認が行われなかったことからも明らかなように、中田氏の発言が権力状況の中での私の立場を忖度したものにすぎなかったことは、同様のことがこの後にもあったことからも間違いないと思っています。

 

 このように、A氏の行為は、「地方自治法」に基づく「松阪市職員倫理規定」に記されている「公務員の職の信用を損なう」行為(第4条)であり、管理監督者は「部下職員から公正な職務の遂行を損なうおそれがあること、又はそのような行為の要求があったことの報告を受けたときは、適法かつ公正な職務を確保するために必要な措置を講じなければならい。」(第6条)規定されているわけでから、本来なら「松阪市職員倫理規定」にもとづいて、この問題に取り組む必要がありました。しかし、そうした認識は全くなく、約束は実行されませんでした。

 このような自らの行為に対するA氏の責任の放棄、また、監督者としての責任に向き合おうとしない上層部、こうした過ちを犯しても誰も責任をとらない姿こそ、大西巨人氏が述べた「累累たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」そのものであることは言うまでもないと思います。しかも、A氏の行為によって私が困難な立場に陥っていることに関して、A氏も、上層部も、まったく無自覚・無関心であることに、「累累たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」の中を生きている人間の「他者感覚」(政治学者、思想家の丸山眞男の言葉。「ひとの『身になって』みる」の意味)の欠如をまざまざと思い知らされました。しかも、この人間にとって大切な「他者感覚」の欠如は、「無責任の体系」「責任不存在の機構」によって助長されたものであるだけに、のちに詳しく述べるように、今回の私の申し入れに対する松阪市の竹上市長や中田教育長の対応にも典型的に顕われていたのでした。

 

非難の高まりと排除

 A氏が説明責任を回避して、見積額を決算額として提出した経緯が明らかにならなかったことにより、「不正経理が行われた。しかも、それに対する誠実な説明がなかった」という事実誤認の決めつけがさらに広められ、松同推内や松阪支部内、それに松阪市議会等において、数々の非難を受けるようになりました。そしてそれは、2014年1月からの松同推の理事の一人による組織外の部落解放同盟三重県連合会(以下、三重県連)への私が不適正に財務処理をした旨の「意見書」の提出と松同推の解散、その直後の松阪支部とA氏が所属していた支部等からの私の除名処分を求める「意見書」の三重県連への提出と松阪支部の除名決定へと繫がっていきました。また、これらの動きと歩調を合わせるかのように、松阪市が私に対して25年間委嘱してきた松阪市人権施策審議会委員の解職、「松阪の部落史」編さん委員会への出席停止勧告を行ってきました。

 このようなことが実行される直前の2014年1月中頃のことです。松阪支部の副支部長のB氏から電話がありました。私と同じ部落出身のB氏は、私より8歳上の元日本共産党の党員で、松阪市職員を退職後、松阪支部に再加入し、副支部長に就任していました。市役所在職時の長年の税務経験を活かして、松阪支部では、企業会員を含む同盟員の税金申告を担当していました。

B氏の電話は、1月末に松同推の会議が開催される旨の連絡でした。前年の10月頃からのB氏ともう一人の役員の言動に不審を抱き、A氏や松同推の理事の動きの背後にB氏らが存在しているのではないかと思っていたので、「陰でこそこそと何を企んでいるのや。」とB氏を叱責しました。B氏は私が「Bさんは唯我独尊やでなあー」とからかうような性格でしたので、普段なら執拗に反論してくるのですが、この時は急に黙りこんだまま電話を切りました。

 同年2月10日、突然、松阪支部の支部長代理という肩書でB氏から松同推への委託契約に関し不明朗な会計処理が発覚したこと等により、私を松阪支部から除名する旨の決定通知が届きました。しかし、これまで述べてきたように、私の除名処分理由として挙げられていることは事実ではなく、また、除名処分を決定するために必要な事実関係の審査や審査確認なども全く行なわれておらず、「松阪支部規約」に定められている手続きに違反したものでした。それで、2月22日に、B氏に対して、「すべて事実無根の言いがかりであり、一切認めることはできません。」という配達証明付きの手紙を郵送しました。

 このようなことがあったので、現在では、私は、A氏や松同推の理事、松阪市の動きは、B氏ら松阪支部役員等との共謀の上に行なわれたという確信を抱いています。また、松阪市の非常勤職員であったA氏が2014年6月に松阪市と関係の深い社団法人の常任理事へ突然就任したことも、これらの一連の動きと関連しているという疑いを強く持っています。

 この後も、松阪支部の権力が移行したと判断した松阪市は、私が代表者であった人権NPOへの4つの委託事業契約の一方的な打ち切りなど、松阪市の人権行政から私を徹底的に排除する方針を実行しました。そして、「助言をしてほしい」という依頼にもとづいて毎回出席していた部落史編集委員会の開催案内も送られて来こなくなり、「宮本氏を出席させられない」旨の発言を部落史編集委員に繰り返し行っていました。

 先にも述べましたが、当時の市長であった山中氏は、「松阪の部落史」編纂事業を「しがらみ」からの「ムダな事業」の一つとして公約に掲げて初当選しており、その打ち切りを実行する機会を窺っているように思っていました。そのことは年度初めに行なわれる部落史編さん委員の委嘱時の山中氏の挨拶や、部落史編纂事業の中止の決定を市議会で行なえるようにするために市議会代表の編纂委員を廃止したことから推し量ることができました。

 2013年に入り、『松阪の部落史』第一巻(史料篇 前近代)に続く第二巻(史料篇 近代)の編集作業が遅れ、「編さん計画」に沿った発行が難しくなってきたことを取りあげ、「編さん計画」の修正で対応できるにも関わらず、「編さん計画」そのものの実行が困難となってきたという主張を事務局(人権まなび課)が行い始め、打ち切りの画策を徐々に表面化させてきました。そして、2014年11月に、松阪支部から部落史編さん委員会に「部落史編さん委員の宮本氏は部落解放同盟を除名されている」ことを理由に、私が参加している部落史編纂事業に反対する旨の部落解放運動団体としては前代未聞の意見書が提出されたのを利用して、部落史編さん委員の反対を押し切って、事業の打ち切りを強行したのでした。そして、事業の打ち切りに伴い、松阪市図書館内にあった部落史編さん室も閉鎖されることになりました。

これらの委託事業契約の打ち切りや部落史編纂事業の中止、私が不正な経理を行っていた旨の市議会発言は、新聞で報道され、私の名誉が著しく棄損される結果を生じさせました。まさに、松阪市の人権の世界からの私の排除・追放が総ぐるみで実行されたのでした。

 このように、30年という年月をかけて、私が全力を注いで松阪市で築きあげてきたものが、その意味や価値さえ理解できない人たちによって壊されていくのを見るのは筆舌に尽くしがたいものがありました。その一方、人間の欲望や嫉妬・憎しみのあつさ、嘘やいつわりの深さや無恥無責任さを目の当たりにして、人間の心のありようについて考えるようになりました。そして、私自身も、かつてのように仲間と心で繋がる力を喪いつつあったことを痛感したのでした。

 

6年間の裁判での闘い

 解放同盟における私の除名処分の問題は、松阪支部から上部組織である三重県連、そして部落解放同盟中央本部での審議に移りました。しかし、そのいずれにおいても、除名処分の判断に関する実体上・手続き上の数々の問題点について十分に検討されることなく、最終的には2014年12月23日に行われた部落解放同盟の中央委員会で除名処分決定が承認されました。そして、そのことが部落解放同盟中央機関紙『解放新聞』に実名で全国的に報道されたことにより、著しい名誉棄損が生じました。

 そこで、私の除名処分の理由とされたのが松阪市の非常職員A氏の人権NPO支援等の業務に起因していること、それに関連して私による不適正な財務処理が行われた旨の松阪市議会での山中市長の発言や各種報道によって著しい名誉棄損が生じたことをふまえ、2015年4月30日に、A氏を雇用していた松阪市に対し、名誉棄損に伴う慰謝料等を請求する訴訟を提起しました。

 裁判は3年余り続き、2018年5月10日に出された第一審判決は、私の請求を棄却しましたが、判決の判断の中で、①A氏が私に見積額で決算書を出すように指示・助言した事実と、②その後、A氏が同決算書を作成した経緯を公の場で説明することを意図的に回避しようとした事実を認めています。この他にも、A氏の指示・助言が「倫理上」問題がある旨の判断を示すとともに、山中市長の市議会における発言が私の社会的評価を低下させるものであることも認めています。その後、控訴したもののやはり棄却されましたが、上記の事実を認める判断は変わることなく、そのまま判決は確定されるに至りました。

 このように、この裁判の判決からも松阪市の過誤は明らかであり、この時点でも、松阪市はそのことに正面から向き合う必要があったと思います。しかし、後に述べるように、松阪市は、裁判の結果をもって自らの過誤を隠蔽しようとする無恥無責任な態度を取り始めるのでした。

 ところで、裁判所が私の請求を棄却した理由の一つに、A氏が松阪市の非常勤職員の立場としてではなく、松同推の社員あるいは私の知人としての立場から行ったということを挙げていたので、今度はA氏個人に対し、2019年1月28日に、名誉棄損に伴う損害賠償請求訴訟を提起しました。

 この裁判における裁判官は、最初の方の協議で私に向かって「大変な目にお合いになって」と同情する発言をしてくれたり、訴訟の争点に関しても私の立場にたった理解を示してくれているように思えました。裁判は途中から裁判官から「和解」の提案があり、「判決では、どこまで宮本さんの要望に応えられるか難しいところがある。和解という方法も選択肢である。」旨の説明があったので、和解調停に同意しました。

 2020年2月28日にA氏と和解するに至り、解決金50万円の支払いと、私の松阪市に対する裁判の判決における認定及び並びに上記①②等の同判決で指摘された事実が私の社会的評価を低下させる行為を招く一因となったことをA氏が受け止め、とりわけ2013年12月26日に予定されていた決算書の経緯に関する説明を果たすことができなかったことを、私に対し、謝罪する旨の合意を行いました。形式的には和解ということでしたが、私の主張がほぼ受け入れられているので、実質的には勝訴といえるものでした。こうして2015年4月から始まった裁判は、6年近い年月をかけてようやく一つの決着をみたのでした。

 裁判は金銭的な負担の問題も大きいですが、それ以上に長期間の精神的な緊張に耐え続けることの重圧は計り知れないものがありました。そうまでして私が闘いつづけたのは、差別や不正義に屈しない生き方を曲げたくないという強い思いがあったからです。しかし、そのような信念も、自分の苦しみや痛みに共感してくれる人たちが存在していたからこそ、はじめて貫くことができたのでした。こうして、私は、差別や不正義に対して、人間の尊厳を貫くために、たった一人でも立ち向かうことの必要性と困難性、そして痛みを分かち合える他者の重要性を、自らの体験を通して学ぶことができたのでした。

 

松阪市への「通知書」と「回答書」

 松阪市の非常勤職員であったA氏との裁判で、A氏が裁判で認定された自身の行為を認めて謝罪したことをふまえ、2020年5月20日に、松阪市の竹上市長、中田教育長に対して「A氏による地方公務員違法違反の行為が行われたことについて、貴市がA氏に対する監督責任・管理責任を認めるとともに、当該A氏の行為が行われたこと、貴市がA氏に対する監督・管理を怠ったこと、及びA氏の上記各行為によって私に対する各種名誉棄損行為が生じ、又、人権4事業についても一方的に打ち切られるに至ったことについて、私に対して謝罪していただくことを請求いたします。」という「通知書」を送付しました。また、部落解放同盟に対しても、同年5月18日に、裁判を闘った弁護士が代理人となって、除名処分の無効を求める「通知書」を送付しました。

 部落解放同盟に関しては現在審議中ですが、松阪市からは、同年6月2日に「貴殿と当市との件については、裁判によりで既に終了しています。A氏との訴訟上の和解は、退職後における私人間の件であり、当事者間のみしか効力がございません。よって謝罪には応じられません。」という内容の「回答書」が届きました。

 この後、松阪市に対して、私は、①私が請求した事項はA氏が松阪市職員であった当時の勤務時間内における行為に関するものであり、公務員としてのその行為の問題点及び管理監督責任についてはA氏が在職中に松阪市に指摘し、確認したにもかかわらず、その任務の遂行を怠った問題であること、②松阪市との裁判は、A氏の行為が松阪市職員倫理規定違反か否か、及び当該倫理規定違反に関する管理監督責任があったか否かを争ったものではなく、「既に終了」したものではないこと、③A氏との裁判は、A氏が職員であった時の「公務の職の信用」に関わるものであり、「退職後における私人間の件」ではないこと、④A氏の行為が私の「社会的評価の低下」という損害を招く要因となったこと等を指摘して、2回のやりとりを行いました。

 その中で、私は、松阪市の回答が「事柄の本質をまったく理解しようとしない無責任・無恥なもの」であることを指摘し、私の真意は、「地方公務員法及び松阪市職員倫理規定に則れる公明な任務遂行を行っているかどうか、また、相手に損害を与えたら、何をおいても心からわびるという人間としての道理をわきまえた公務の遂行を行っているかどうか、という地方自治の根幹に関わる点」であったことを説明しましたが、松阪市はそのことには全く触れずに、まるで「壊れた蓄音器」のように当初からの主張を繰り返し続けるだけでした。

 

「累累たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」

 もう一度、今回の問題の構図を簡単に整理すると、次のようになると思います。

 

 人権NPOに派遣されていた松阪市の非常勤職員A氏が、理事会に提出する松同推の委託事業の決算報告に関して、虚偽の情報に基づいた誤った指示を私に行ったことで、私が正当な報酬以外にも着服を行っていたかのような全く事実に反する疑いが生じ、組織内に混乱が生じた。組織内部での円満解決のために、A氏がその経緯を説明すると約束したにもかかわらず、説明責任を果たさず、雲隠れしたように登庁および事務所に顔を出さなかったことにより、私の濡れ衣が晴れないまま、私への不審や非難がさらに高まった。そのために、この問題をA氏が所属している松阪市教育委員会人権まなび課に提起し、課長は「事実調査を行う」と約束したが、それを果たさず放置した。その後、この件に関して市議会で質問を受けた市長は、自らの職員のでたらめを恥じるどころか、私個人を一方的に断罪して、社会的評価を低下させるとともに、松阪市の人権行政の関わりから一切排除した。

 一方、部落解放同盟も、私の主張の検討やそれに関連する事実調査を十分に行わず、松阪支部における除名決定を追認し、それを機関紙に報道することによって、私の名誉を失墜させた。

 

 このように、この問題は、私に反感を抱く人たちが、それぞれの利害に基づいて結集し、松阪市の職員の過誤と組織としての怠慢という統治構造の歪みから生じたことを利用して、私を非難し排除したものだといえます。

 1207(承元元)年に、その当時、隆盛の勢いであった法然の浄土念仏門に対する弾圧が行われたことについて、自らも越後へ流罪に処せられた親鸞は、主著『教行新証』の後書きで「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ。」という有名な言葉を書き記していますが、部落解放同盟において私の除名処分に動いた人たちも、これと同じではなかったかと思っています。

 しかも、非難・排除の原因をつくった松阪市は、私からこの点を追及され、謝罪を請求されると、自らの責任を認めたくないために、争点になっていない裁判の結果をもちだし、この問題は「既に終了」と言い逃れを繰り返し続けています。こうした統治構造の歪みが根深いものであることは、松阪市の職員の倫理問題に関する私の請求(「通知書」)の担当を「職員課」はなく、「人権・男女共同参画」にしていることからも明らかです。

 さらに、私の「通知書」では、①私の書籍・資料の寄贈先の松阪市教育委員会の「松阪の部落史」編さん室がすでに閉鎖されていること、②寄贈した際の取り交わしに応じて書籍の返還が行われた実例があることを理由に、一部の書籍の返還を請求しましたが、これに対しても、「返還請求に応じる取り交わしや返還に応じた記録はございません。よって、返還には応じられません。」と回答しています(注)。

 私は具体的な書名をあげて返還の実例を示しており、調査をすればそれに対応した当時の人権まなび課の職員(異動により現場の学校の管理職に就任している指導主事)も確認できたはずです。したがって、「記録はございません。」というのは、自らの公文書の作成や保管のずさんさを証明したものに他ならないといえるでしょう。

 このようなあり方について、先にも触れたように、大西巨人氏は『神聖喜劇』の中で「累々たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」と表現し、「ここ数年来、日本国家一般は、戦争前・戦争中なみの『累々たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構』に堕しつつある。」(「要塞の日々」『日本人論争 大西巨人論争』左右社、2014年)と指摘しています。大西氏がこの指摘を書いたのは2006年でしたが、森友学園問題、国会議員の河井夫妻逮捕に見られるように、今日おいては、その状況はより一層深刻化しているといえるでしょう。

 この「累々たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」は、上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲してくことによって全体のバランスが維持されている体系であって、その中では権力状況において上の立場にある人に対する「忖度」が日常化し、その一方で弱い立場の人に向けた不合理な取り扱いがまかり通っています。今回の竹上市長、中田教育長の私への無恥無責任な対応は、「堕しつつある」状況の深刻化の中でのこうした人間の劣化が反映していると見て、まず間違いないと思います。松阪市は、この問題がとるに足らない、わずらわしい問題であると考えているかもしれませんが、実はこれが人間の尊厳にかかわる問題であることをぜひ認識してほしいと思います。

 最後に、私が自分自身のあり方や他者との関わり方を見つめ直す「道標」としている、最晩年の親鸞が自分自身を凝視した「愚禿悲嘆述懐和讃」を紹介します。そこには、「虚仮不実のわが身」(嘘いつわりばかりのわが身)、「無慚無愧のこの身」(罪をはじる心がないこの身)、「小慈小悲もなき身」(わずかばかりの慈悲さえもないこの身)、「蛇蝎奸詐のこころ」(蛇や蝎のような毒のある邪な心)等、自分が正しい、自分の思い通りにしたい、自分が可愛いという「我執」に束縛された人間の心を深く見つめた言葉が書かれています。

 さらにまた、この和讃の中には、今回の問題の本質を言い当てているような「外儀(げぎ)のすがたはひとごとに/賢善精進現(げんぜんしょうじん)ぜしむ/貪瞋邪偽(とんじんじゃぎ)おおきゆえ/奸詐(かんさ)ももはし※身にみてり」(みなそれぞれに賢く良い行いに励んでいるかのように振る舞っているが、内心は貪りや怒り、偽りばかりであり、その身には人を欺こうとする思いが満ちている。)という文章もあります。

 一時の権力に酔いしれて、人間の尊厳に気づけなくなっている人たちのために、自戒の念を込めて、これらの言葉を書き留めておきます。

 

※「ももはし」とは「百端の訓読み。数が多いこと」の意味です。

 

 私は、『三重県部落史料集』近代編、前近代編(1974、1975)を編集した財団法人三重県厚生会(以下、厚生会)の評議員に、2003年3月31日の解散時まで就任しており、解散前の何年かはこの法人の運営に対して助言を行っていました。現在では、役員で生存しているのは私一人となっているために(三重県行政の担当者も死去しています)、解散時の財産の扱いの経緯を知っている人は存在しないと思います。

 解散の際に、三重県厚生会は、「定款」に基づいて「残余財産」のうち現金は三重県に返還し、所蔵していた史料については「松阪の部落史編さん事業」に取り組んでいた松阪市教育委員会人権まなび課(「松阪の部落史」編さん室)に寄贈することを決定し、それらの史料は松阪図書館内にあった編さん室等に保管されました。編さん室への寄贈は、厚生会の理事であった和田勉氏が部落史編集委員会委員長として、編さん室に常駐して編集作業に当っていたことも大きく関係していました。

 その和田氏が死去されてしばらくして、図書館内の厚生会関係の史料を調査したところ、寄贈史料の目録をはじめとする関係文書も作成されておらず、史料そのものも所在不明となっていることが発覚しました。そのために、私は、部落史編集委員会や事務局会議で「厚生会の部落史史料は部落史研究にとって貴重な財産であり、保管していた人権まなび課は責任をもって所在の調査をする必要がある」と指摘し、学び課もそれを了解しました。しかし、これもA氏の時と同じように、その約束は全く果たされませんでした。

 このことからも、私の寄贈した書籍に関する「記録はございません。」という実態が、このような公文書の作成・管理や史料等の保管のずさんさ、無責任さを反映したものであることは明らかだといえます。

 なお、厚生会の部落史史料は、上述したような重要な価値があるので、松阪市は、再度、責任をもって所在の調査確認を行うよう、ここに記しておきます。