ゆめネットみえ通信

人種主義の歴史的探求

 2015年4月、私は、立命館大学大学院先端総合学術研究科に入学しました(この一年後、体調を崩し、松阪から京都への通学が困難になったため、二年間の休学の後に自主退学)。そこでは、世界で読まれている名著『人種と歴史』の著者クロード・レヴィ=ストロースの研究者・渡部公三さん(1949―2017)の授業(ゼミや講義)を受けました。近代人種主義の成立についての渡辺さんの授業は、私にとって非常に刺激的であり、世界的な視野から部落差別問題を捉え直すための多くのヒントがありました。

 これまで、「大阪のヘイトハラスメント裁判」や宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 1921―1924年』の批評で人種主義とそれに対する闘いを取りあげてきましたが、今回は、そのことと関連して、渡辺さんの授業から学んだことをふまえて、人種主義と部落差別の歴史的な探求をテーマにして書いた「帝国支配と部落差別」という5年前のレポートを掲載します。

 

帝国支配と部落差別

                            宮本 正人

 

1 はじめに

 1965年に内閣総理大臣へ提出された「同和対策審議会答申」(「同対審答申」)(1)は、「同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である」と記し、部落差別が封建遺制であり、日本固有の問題であるとした。この同対審答申の認識は、部落解放同盟の主張の多くが採りいれられたということもあって、その後の人権行政・人権教育の中で基本的な認識として位置づけられた。そして「部落史」研究においても、従来からの「国民史」のなかの「個別史」という枠組みの固定化がさらにはかられていく大きな要因の一つともなった。

 これに対して1990年にひろたまさき氏は、部落差別と他の差別との共通性や、「近代」や「国民国家」と差別の創出との関連等を解明する研究の必要性を提起した[ひろた1990]。それを受けて、黒川みどり氏は、人種主義(racism)を肌の色などにもとづく「人種」だけでなく、「文化的差異」も含めたものとしてとらえ、部落差別を人種主義として位置づける試みを行った[黒川2005]。人種問題に関して、酒井直樹氏は「国内に見出される人種問題は、国外にある国際的な秩序と切り離して理解することはできない」、「国外は国内に繰りこまれている」という重要な指摘を行っているが(酒井2008)、部落差別問題に関してもこうした視座が求められていることはいうまでもないだろう。したがって、本稿では、ひろた、黒川氏に代表される研究の流れをふまえつつ、国際的な秩序や世界的な連鎖との関連から、部落差別問題の成立と全国水平社の創立の意味に関しての問題提起を行いたい(2)。

 なお、このレポートは、本来必要とされる史料の十全な実証作業の多くを省いたきわめて簡潔なものである。

 

2 国際的な秩序としての人種主義・植民地主義

 日本が世界システムに参入された19世紀後半、西欧列強は本国の資本の投資先、安価な労働力やエネルギー源の供給先および国内の社会矛盾のはけ口の確保などで非ヨーロッパ世界の争奪戦を繰り返していた。そこでは建前であるとはいえ国民主権と人権尊重の原則が適用される本国と、差別と暴力にさらされ、国際法の保護が期待できない植民地という、根底から矛盾した二つの原理が併存していた[酒井2008、竹沢2005]。「人種平等」という普遍主義的な理念からすると、本来なら植民地に対しても人権尊重ということを適用されなくてはならないはずであった。しかし、植民地の現実はこうした普遍的な理念に対する裏切りを証明しており、そのために植民地支配を正当化する根拠が求められた。そこで動員されたのが西欧でつくりだされたさまざまな諸科学であり、なかでも、脳の容量をはかり、その小ささを根拠に黒人や有色人種の劣等性を「科学的」に証明しようとしたポール・ブロカに始まるフランスの「人種論的人類学」は、近代人種主義の成立に決定的な役割を果たした[渡辺1997、竹沢2005]。

 このような植民地における非人道的な差別・抑圧の根拠となった人種主義は、大英帝国の植民地インドで発見された指紋法が南アフリカを経て本国での人間の管理・統治の技法として整備されていったように[渡辺1996]、国民国家再編と国民形成にはげんでいた本国フランスへと還流されていった。植民地統治に絡んだ人種主義による「誰が人間なのか」という問いは、今度は「真の国民とは誰か」、「真の国民からなる国家を建設するには誰が排除されてなくてはならないか」というように本国の国民自身に向けられることになったのだった[竹沢2005]

 産業革命と政治革命によって生み出された帰属意識を持たない「群衆」は、こうして人種主義によってナショナリズムに包摂されていった。やがてそれは、「『誰か他の人の立場に立って考える能力』が不足した思考停止的な人間」[ハンナ・アーレント1969]の量産につながっていったが、そのことはまた、一人ひとりが独自な存在である人間を、「戦争機械」としての「国民国家」のために利用できる資源(兵士、労働力等)とみる見方が拡大していったことを意味していた。〈ネグリチュード〉を提唱したフランスの植民地マルティニックの詩人・政治家のエメ・セゼールが1950年に指摘したように、「土着の人々に対する侮辱にもとづき、その侮辱によって正当化される植民活動、植民地事業、植民地征服というものは、それを企てる者自身を不可避的に変容」させていったのだった[エメ・セゼール2004]。その後、人種主義は、1889年にパリで行われた万国博覧会や植民地博覧会などの「帝国の展示」で、フランスを経由してヨーロッパ諸国へと広がっていった。

このようにして、19世紀後半、植民地主義・人種主義は、本国と植民地との相互作用のもとに国際的な秩序として確立されていった。そして、この国際的な秩序は、後発の帝国である日本を含め、地域的な差異を超えて同時代的に世界各地で導入が進められていくことになった。

 

3 人種主義の学習・模倣と移植

 成立したばかりの明治政府は、欧米列強の植民地とならないために、国際的な秩序である植民地主義・人種主義を忠実に学習・模倣し、移植していった。明治維新の翌年の1869年には、和人によって蝦夷島と呼ばれていたアイヌモシリを「北海道」と改称し、日本の領土として強制的に編入した。ついで1879年には、軍事力を背景に琉球王国を併合して沖縄県とした(「琉球処分」)。その際、「日本人」「日本民族」の自己画定のために、先住民族アイヌを「野蛮」「劣等」というレッテルをはりつけ取り出してから同化の対象とした。沖縄においても同様で、「言葉を先頭に、風俗・信仰・姓名等『琉球』は異風として焙り出され、拭い去られようと」した[鹿野1997]。その後、日清戦争の翌年の1895年には植民地台湾を獲得し、さらに日露戦争の5年後の1910年には大韓帝国を併合して日本の植民地支配下に置き、帝国の版図のさらなる拡大をはかっていった。その後、台湾や朝鮮支配に満足せず、自国への「脅威」を掲げ、中国への勢力拡張と日中戦争に邁進していった。

 ところで、こうしたアイヌ、沖縄、台湾に対する植民地主義・人種主義の実践を正当化する「材料」を提供したのが、西欧と同じく、日本においても人類学であった。「人種論的人類学」の影響を受けた日本の人類学者たちはアイヌの頭蓋骨の発掘や身体計測等の調査を行い、アイヌが野蛮で文明に遅れていることを報告したが、そのことは沖縄や台湾の先住民の紹介の仕方においても同じであった[ひろた2008]。そして、1903年には、日本の人類学の祖・坪井正五郎が1889年のパリ万国博覧会を模倣して発案した第5回内国博覧会の「学術人類館」において、アイヌ、沖縄、台湾の先住民「生蕃」は、「帝国主義の祭典」を飾る「異人種」「異文化」の「陳列品」として並べられたのであった[黒川、藤野2015]。

 このような周辺部の植民地化と同時並行して、「世紀転換期の日本の地方は国内植民地論の検証の場としてふさわしい条件をそなえていた」と指摘されているように[西川1999]、いわゆる「内地」でも、廃藩置県や神仏分離令の後も、地域そのものが持っていた自治権や文化への弾圧と中央への統合が進められていた。1880年に自由民権運動を理論的にリードしていた高知の植木枝盛が「徳川政府はたおれて我が明治政府新たに政を為ることになりても、廃藩の頃よりは頻りに権力の中央に聚まることとなり、地方には権もなく力も無きことに至り、人々競うて東京江戸に趨き、首府は益々盛んに、地方は愈愈衰へ、随って財貨も地方を辞して京地に流れ込むの勢いとなれり。故に此勢は今尚盛んに行われ、地方は日々に貧弱に傾けり。豈に哀しむ可きに非ずや」(「交際の平均」『大阪日報』1880年9月2日)と説いたように、中央集権を推進する明治政府によって富国強兵・軍備増強のために地方の富や力が吸い上げられ、あらゆる地方が植民地化されていった。

 そうした中で、「内地」においても「異民族」「異文化」として規定する対象が[発見]されることになった。すなわち、「内地」の人びとの国民化=文明化をはかるために、「全国に散在」していた旧エタ身分の人たちとその集落が「異民族」「異文化」として規定されたのだった。たとえば、三重県松阪では、1888年の町村合併の時に、旧エタ身分の人たちが住む村だけが「人情・風俗」の差異を理由に取り出され、政策的に一村が形成された[松阪市1983]。そして、1905年には全国に先駆けて三重県知事有松英義のもとで行われた部落改善政策のための調査報告書では、「特種部落」という呼称が用いられ、人種の違い、言語の違い、犯罪の温床、怠惰、残忍、衛生観念の欠如、生殖器官の違いなどの「人種的・言語的・文化的・生物的差異」がことさら強調された[三重県厚生会1974。黒川2003]。そして、部落改善政策の中で示された「野蛮な存在」「特種な存在」とする見方や「特種部落」という呼称は、内務省によって同様の政策が他府県においても行われたことにより全国的に広がっていった。

 1904年に内務省警保局長から三重県知事に転出した有松が部落問題に着目するにいたったのは、「統計の上に於いて比較的此部落に犯罪者の多きが為」(『牟婁新報』1906年10月27日)とあるように犯罪防止の観点からで、そのことは三重県での部落改善政策が警察官主導で遂行されたことに顕著に示されていた[黒川2003]。その後、知事を辞めてふたたび警保局長にもどった有松は、1910年の大逆事件の捜査の陣頭指揮にあたった。この時、大審院検事局次席検事(兼司法省民刑局長)として、その審理において中心的な役割を果たしたのが、有松と同じ岡山県出身の平沼騏一郎であった。

 1908年の指紋法の導入の推進役であった平沼は、全国水平社創立後の1925年に内務省社会局内に設置された中央融和事業協会の会長に就任した[渡辺2000]。中央融和事業協会は、全国水平社に対抗して設けられたもので、戦前を通じて融和事業の連絡統制機関の役割を果たしたが、翼賛体制のもとで同和奉公会に改称した戦時下では、部落の「人的資源」を国策に応じて供出する「資源調整事業」(具体的には戦争に必要な産業への転業と「満州」移民)を推進した[黒川2011]。

指紋法、部落改善政策、大逆事件、中央融和事業協会とつづく平沼らの軌跡の背後から浮かびあがってくるのは、「全国水平社創立大会記」で部落改善政策に関して「彼等は民族自決の乱打する黎明の鐘に恐れ戦いた。スワ国家の一大事と苦慮した。政府当局もいくらか考ふる所があったか特殊部落改善政策を始めた」と指摘されているように(『水平』1922年7月)、植民地体制に反対する民族主義への脅えであった。

 大逆事件で最も多くの犠牲者を出した和歌山県新宮市出身の文学者・中上健次は「大逆事件は、時の官憲のデッチあげてやる。デッチあげをやる人間が、大逆という汚名を着せるには、日本というあるべき国の在るべき姿を思い描くことが必要であった。一つの理念である。その理念に真っ向から対立するのが、大石誠之助を中心とした紀州新宮のグループ、いや、紀州というもう一つの国の理念である」と指摘しているが[中上1977]、その理念こそ、「国民国家の統治原理は植民地主義である」ということであった[西川2009]。そして、帝国的国民主義の担い手であった平沼や有松らは、植民地住民や内地の少数者、共産主義者や無政府主義者、移動する人びと、犯罪者等々の「叛乱」の予感に脅え(3)、その理念を守るためにさまざま取り組みを行ったのだった[酒井2008]。

 ところで、先に見たように「文明が形成され維持されるためには、自己の外部のみならず内部においても野蛮の存在が必要」であり[西川2006]、その内部における「野蛮の存在」として[発明/捏造]されたのが「特種部落」であった。そして、そのことに大きな役割を果したのが、ここでも「人種論的人類学」であった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、人類学者・考古学者の鳥居龍蔵は、ポール・ブロカによって開発された頭蓋計測や身体特徴の計測の手法を用いて、旧エタ身分の人たちの人類学調査を精力的に行った。それらの計測の結果、旧エタ身分の人たちは、台湾の先住民「生蕃」と同系統のマレー系の人種であり、現在にまで固有な文化や遺伝形質を伝える人種集団と位置づけた[関口2011]。この鳥居の調査や前述した各地の部落改善政策の報告は新聞に掲載されて大きな反響を呼び、旧エタ身分の人たちを「異民族」「野蛮」「特種」という見方が民衆の間に定着していった。こうして、江戸時代の「賤民」に対する差別は、国民国家の形成が進むなかで、部落差別に姿を変え、今日まで存続する被差別部落(以下、部落)が誕生した。ここに、西欧の人種主義を学習・模倣・移植した部落差別、すなわち前近代の身分差別に近代人種主義を接ぎ木した部落差別が、天皇制の確立と密接に結びついて成立したのだった。

 天皇制が国民統合の中心にすえられたことに関しては、西川長夫氏が「西欧的な宗教を欠くわが国において一国の独立を危うくしかねないキリスト教を拒否するとすれば、それに代わるものとしては天皇制しかありえない」と考えるべきであり、天皇制は「モジュールとして移植された国民国家最大の難点の克服であり、まさしく日本型国民国家の創出[発明]であった」と指摘している[西川1995]。

日本における「穢れ」の文化の歴史をふまえて創出[発明]された天皇制は、天皇の対極となる存在を必要としていた[柴谷1991]。そこで近代において[再発見]されたのが旧エタ身分の人たちであり、国策としての部落改善政策を通じて「特種部落」が[発明/捏造]された。そして部落差別は、三重県の部落民の貧窮と不潔を台湾の先住民「生蕃」になぞらえて留岡幸助が非難したように、大日本帝国の植民地支配が拡大していくことによって、さらに増幅されていったのだった[ひろた2000]。

 政治哲学者のハンナ・アーレントは、19世紀末における「宗教的なユダヤ人憎悪とは異なる反ユダヤ主義(反セム主義、アンティセミニズム)が社会や政治の同時代的な問題状況と平行して現れた。(略)帝国主義となっていく段階で激化したということが鍵となる」と指摘しているが[ハンナ・アーレント1972-1974、矢野2014]、部落差別に関してもこれと同様のことが言えるであろう。すなわち、部落改善政策が展開された20世紀初頭は、日露戦争の勝利にともなって日本の植民地支配が拡大し、「一等国民」としての意識が高揚していた。「『一等国民』として国際世界に対等に扱われるためには、国民のなかに一人前ではない、なり損ないの日本人を必要とした」[酒井2008]。これらの「なり損ないの日本人」は「形式的には日本人であったが、人種差別の対象とされた人々」であり、アイヌや沖縄人と同様に、部落民もまた、「一等国民」としての自己画定のための「内地」における「なり損ないの日本人」として位置づけられたのであった。

 しかし、「[発明/捏造]されたものは何であれ解体可能であることを忘れてはならないし、私たちが向きあうべき一番大切な問いとは、その場所で次に何を創造するのかということ」であり[ロビン・D・G・ケリー2007]、そのために「起きて見ろー夜明けだ」(水平社創立趣意書「よき日の為に」)という呼びかけの下に水平社創立の準備が進められた。

 

4 頽廃と堕落の中から

 先の三重県の部落改善政策のための調査報告書には、通常人間以外に用いる「繁殖」という言葉も使われ、旧エタ身分の人たちが「獣」に近い存在として描かれていた[三重県厚生会1974。黒川2003]。エメ・セゼールは「植民地化する者は、自らの免罪符を与えるために、相手の内に獣を見る習慣を身につけ、相手を『獣として』 扱う訓練を積み、客観的には自ら獣に変貌していくのだということを証明している。示す必要があったのは、植民地化のこうした作用、この反動化の衝撃である」と語っているが[エメ・セゼール2004]、同じ人間である被差別部落の人たちを「獣」のように扱うことで、他者の心に対する「共感的想像力」を喪失し、「彼ら自身が獣になっていった」のだった(4)。

韓国併合と同時生起した大逆事件の犠牲になった幸徳秋水は、日露戦争に際して書いた「兵士を送る」という論稿で「諸君は今や人を殺さんが為に行く、否ざれば人に殺されんが為に行く。吾人は知る、是れ実に諸君の希う所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械なり」(『平民新聞』第14号、1904年2月)と指摘したが、帝国日本の対外侵略が本格化するこの時期に、「戦争機械」であった国民国家に「ふさわしい存在」=「自動機械」に民衆は変身させられようとしたのだった[西川2000]。

 そうしたことからすると、部落とは、民衆を「国家にふさわしい存在」である「国民」に変身させるための装置の一つとして創出されたといえるだろう。こうして誕生した「国民」は、「その品性を堕落させ、もろもろの隠れた本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を、倫理的二面性を呼び覚ま」され、また、「国民」を生み出し育てるために創出された部落民も、同化政策である部落改善政策によって、「恐怖、劣等感、おびえ、屈従、絶望、下僕根性を巧みに植え付けられた」のだった[エメ・セゼール2004]。

 このように、部落改善政策による植民地主義・人種主義の実践は、差別される者、差別する者の双方の頽廃と堕落を招いたが、その暗い闇の中から全国水平社は起ちあがってきた。全国水平社創立のメンバーの一人、平野小剣は、創立の前年の1921年2月3日に帝国公道会の主催によって開かれた第2回同情融和大会の会場において、部落民を「民族」と規定した「檄文」を「民族自決団」の名でまいた。その冒頭には「我ら民族の祖先は最も大なる自由と平等の滑仰者であり、又実行者であった。そして最も偉大なる殉教者であった。我等はその祖先の血を享けた民族である。今や世界の大勢は民族自決の暁鐘を乱打しつつあり、我等は茲に蹶然起って封建的社会組織の専制化より我々民族の絶対的『力』を俟って、我が民族の解放を企画しなければならぬ」と書かれていた。

 そして「全国水平社創立大会記」に「欧州戦乱の産物として世界の一角から乱打された民族自決の暁鐘は、吾々民族に強い刺激を与えた。黎明を告ぐる鐘の音が吾々民族の耳朶に響いた秋、民族中の有識者は双手を挙げて踊り狂った。千有余年の間の屈従の奴隷生活から脱する秋は来たれりと密かに喜んだ。民族の血潮は躍動した。そして澎湃たる思想の潮流は青年をして浸せしめ」と記されているように(『水平』1922年7月)、国際政治への鋭い感受性を持った青年たちによって、1922年3月3日、全国水平社は創立された。1923年11月に結成された全国水平社青年同盟を理論的に指導した高橋貞樹も「世界人口の4分の3は殖民地ないし半殖民地の状態にある。そしてこれらの奴隷化の地位に置かれた13億の民の不遇に心を痛むるものは、吾が国に古代奴隷を髣髴たる300万同胞の存在することを忘れてはならぬ」と、部落の状況と「殖民地ないし半植民地の状態」とを重ねてとらえていた[高橋1923]。

 1917年のロシア革命、第一次世界大戦後の民族自決論の提唱、1919年に日本政府がパリ講和会議に提案した人種差別撤廃条案は、植民地化された地域・人々に大きな影響を与えた。パリ講和会議のさなか、第1回のパン・アフリカ会議が同地で開かれた。それを組織したアメリカの黒人解放運動の指導者・W・E・B・デュボイスは、合衆国の黒人差別を先進資本主義国による全世界的な有色人種抑圧の一環としてとらえ、合衆国の黒人の運動を世界中の有色人種の闘争の中に位置づけていた[竹本2012]。インドにおいてはイギリスの植民地支配に対して、ガンディーが非暴力・不服従運動を開始し、東アジアでは、1919年、日本に併合された朝鮮で3.1独立運動が、中国では5.4運動が起きた。日本でも植民地主義・人種主義の暴力に晒されていた部落民・平野小剣が人種差別撤廃と民族自決にいち早く反応して先の「民族自決団檄」をまき、そして全国水平社が創立された。さらに1923年には、アイヌ民族が誇りを取り戻し、その世界観を広く世に伝える出発点となった知里幸恵『アイヌ神謡集』が出版された(5)。

 このように1910年代から20年代は反植民地主義・反人種主義の闘いが世界的に高揚していたが、その一方でヨーロッパでは進駐軍としてドイツに投入されたアフリカ兵に対する差別が広まり、1920年末にはアメリカにおいてはク―=クルックス=クランが急激に台頭していた[渡辺1997]。日本でも全国水平社が結成された翌年の1923年3月に奈良県で差別発言に対する謝罪をめぐって全国水平社1000人と大日本国粋会1000人とが対峙し衝突した事件(水国争闘事件)があり、9月には関東大震災における朝鮮人虐殺があった。1926年1月には、三重県木本町(現熊野市)でトンネル建設工事に来ていた朝鮮人労働者に対する地元の在郷軍人を中心とした住民による虐殺事件(木本事件)が起きた。植民地台湾においても「日本の1910年代~20年代の『デモクラシー』(インペリアル・デモクラシー)の時代は、日本人による台湾原住民殺戮の時代であった」[金1996]。

 こうした世界的な現象について、「集団的ヒステリーなどというものてばなく、人種対立の暴力性の発現の世界的な同時性として考えなければならないのではないだろうか」と指摘されているように[渡辺1997]、1910年代から20年代は、植民地主義・人種主義を延命させようとする動きとそれを廃絶しようとする動きとの対立が世界的に激化していく歴史的な転回点であったといえよう。

このような世界的な連鎖の中から、植民地主義・人種主義に反対する「東アジア革命」[テッサ・モーリス・スズキ2008]の一環として、全国水平社は結成されたのだった。その創立大会の「宣言」では「過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の為の運動が、何等の有難い効果を齎さなかった事実は、夫等のすべてが我々によって他の人々によって毎に人間を冒涜されていた罰であったのだ。そして、これ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させたことを想えば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは寧ろ必然である」と、部落改善政策によってもたらされた「堕落」を根底から批判し、その「堕落」を救うために全国水平社が結成されたことを強く訴えていた。

 「宣言」には本文605字中に「人間」という言葉が10回も使われていたが、その最後は「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦わる事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人世の熱と光を願求礼讃するものである。水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間にあれ」という有名な言葉で結ばれていた。「宣言」の中の「人間」という言葉は、一般的なヒューマニズムから出たものというより、部落差別によって大きな苦悩にさいなまれ続けた体験に根ざした他者の心への「共感的想像力」と人間解放に対する激しい欲求からから出たものであった。その意味で、「宣言」は、よく言われるようなフラン人権宣言や世界人権宣言に匹敵するものというより(6)、植民地主義・人種主義によって民族や国民から排除された当事者たちによる「人間解放宣言」の先駆けであり、第三世界の闘いがめざしたものを象徴した言葉である「真の問題は人間を解き放つことだ」[フランツ・ファノン1969]や、アフリカ系アメリカ人の闘いのスローガンであった「ブラック・イズ・ビューティフル」へとつながっていくものであったと思う。

 こうして水平社は、その「綱領」に「我等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す」と記したように、非人間化された自分自身を、そして植民地主義・差別主義を内面化させられた「国民」を、解き放つ闘いへと歩み出していったのであった。その先には外部からの策謀・介入・弾圧、それらと絡みついた同志間の対立や権力闘争という困難な状況があり、そして「なり損ないの日本人・国民」という位置が強いた「一人前の国民として認められたい」という願望ゆえに、「愛国者」「帝国的国民主義者」へ編成されるという大きな罠が国家によって仕掛けられていた(7)。

 全国水平社の創立者たちが思い描いた当初の巨大な目標は、金静美氏がきびしく批判したように、戦時下の侵略戦争への協力と民族差別への加担、オール・ロマンス闘争に象徴されるような戦後における国民主義的な運動の継続など[金1994]、自らの弱さや権力の策謀に屈して道半ばで方向を誤って破綻していったと言えるかもしれない。だが、世界が叶えたことのない理想の実現をめざした「志」は、決して消え去ってしまうことはなく、戦後における狭山闘争、識字運動などの文化運動の中に生き続けると共に[西岡2007、日野1979]、さまざまな境界を超えて継承されていた。

 「障害者」解放運動をリードしてきた一人である牧口一二氏(特定非営利活動法人ゆめ風基金代表理事)は、私との聞き取りで、全国水平社創立大会の「宣言」との出会いについて、「弱い立場のものが力を持つというのは大変なこと。口で言うほど簡単なことではない。水平社宣言で『人間に光あれ』と、弱い立場に置かれた中から、これだけの力を持つ言葉を持った。そのことにものすごく感動した」と語っている。こうした出会いを通して、牧口氏は「ちがうことこそ、ええこっちゃ」という主張を展開し、「(人間の心は)人と人との間に生まれる。人と人との間だけじゃない。動物の間にも、植物との間にも、そう、道端の小石との間にも心は生まれ出る。だから、『人間』って言うんだろうね」と[牧口1995]、世界の希望のために人間解放を求めて闘った人たちと同じように、複数の人間が多様な価値を持ちながら共存し、地球規模で相互に依存しあいながら生きているということを主張したのだった(8)。

 今日、海外で武力行使をするための「国防軍」の創設と安全保障関連法案の成立の動きが、原発の再稼働と輸出の推進と絡みながら強硬に進められている。また、そうした状況と結びついて、ヘイト・スピーチも激化している。このような植民地主義・人種主義の継続のもと、2015年7月10日、国会前で安全保障関連法案に反対する抗議行動が行われた。その中で、一人の女子大生が「人の痛みに無自覚で、思考停止する人間になりたくない。だから声を上げる」と宣言し、参加者から歓声が上がった(『中日新聞』2015年7月12日)。深刻化する「人間の無用化」に対する闘いは、地域や年代を超えて拡がり始めているのである。

 

 

(1)今年(2015年)が50年目にあたる同対審答申(正式には「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方  

 策」に対する答申)は、その後の同和行政の基本的指針たる役割を果たし、現在も、政府、地方公共団体はもちろん運動団体も積極的評

 価を与えている[部落解放・人権研究所編『部落問題・人権事典』解放出版社、2001年]。しかし、同対審答申の本質は、部落の状況を  

 「原始社会の粗野と文明社会の悲惨さをかねそなえた地区」ととらえ、「文明化」「近代化」によってその問題の「解決」をはかろうとした同 

 化政策であった。その意味で、同対審答申は、同年に締結された日韓基本条約、1963年5月に起きた冤罪事件である狭山事件と同じ 

 く、高度経済成長下の「国民」の再編の問題としてとらえていく必要があると思う。また、1964年に合衆国で制定された公民権法には「運

 動を共産主義の影響から切り離しておく」という意味が隠されていたが[竹本2001年]、同対審答申やその具体化のために制定された同

 和対策事業特別措置法(1969年)に関しても、「自民党政府もこの底辺の最もぶきみな力をもつ集団を管理し、堕落させる方法として、あ

 の同和対策事業というものを許容してきたのではないかと、私は考えてきました。同和対策事業特別措置法、地域改善対策特別措置法

 の中にある自民党側の政治的読みというものも、私は現代革命の問題と関係があると思います」と指摘されている[色川1983]。同対審

 答申や同和対策事業特別措置法は、1950年代後半から60年にかけて勤評闘争、安保闘争、三池闘争を積極的に闘った部落解放同

 盟を国家に回収することをねらったものであったといえよう。

(2)「部落史研究」をはじめとする差別史研究者の姿勢の問題に関して、部落解放運動が内包しつづけてきた民族差別の問題を精緻な実 

 証作業によってきびしく批判した金静美氏は、その批判は部落解放同盟や、そのことをそれまで明瞭に指摘しなかった研究者(日本人全

 体)に向けられたものであるとともに、日本人の民族差別にたいする批判であったことを明らかにしている[金1994]。しかし、この批判を

 うけた研究者たちや部落解放運動にかかわった人たちについて、「その後も、かれらのほとんどはいつわりをつづけるだけでなく、なかに

 は秋定嘉和のように、わたしの全国水平社にたいする『イメージ』や『期待』について空言をいいだすものもいる」と指摘しているように[金

 1996]、かれらの反応は明瞭ではなく歯切れの悪いものであった。西川長夫氏は植民地問題研究について「植民地問題の研究ほど研 

 究者の立場を明確にさらけ出し、明確に示すことが要請される研究は少ないと思います。(略)自分の立ち位置を反省することなく、実証

 的な研究成果を積み上げて満足している幸せな研究者を見ると、どう対応してよいのか困ってしまいます。あるいは逆に、自己の内なる

 植民地主義に目をつむって、植民地主義の不正と加害性を叫びたてる、正義の味方的な研究者の存在をどう考えればよいのでしょうか」

 と発言している[西川2013]。自己解放・人間解放という動機を欠落させた「部落史研究」についても同様のことが言えると思う。

(3)宿谷晃弘氏は、平沼の「このような国体論のもとでは、ユダヤ思想、共産主義は、もっとも恐るべき敵である。なぜなら、国体それ自体

 に対する攻撃を目論むものであるからである。この反ユダヤ思想とでも呼ぶべきものは、平沼だけでなく、留岡も含めた様々な人たちに

 よって共有されていた」と指摘している[宿谷2013]。ここに挙げられている「留岡」とは、内務省嘱託として部落改善政策を指導した明治

 大正の社会事業家・留岡幸助のことである。その意味で、部落改善政策(のちの中央融和事業協会も)は、「叛乱」の元凶と見なしていた

 部落を「国民化」することで、先手を打ってその芽を摘み取ってしまうということをねらったものであった。

(4)この問題について、南アフリカ出身の文学者J・М・クッツエーは、小説『動物のいのち』の登場人物である作家・エリザベス・コステロに

 「同じ人間、神の似姿として創られた人間を、動物のように扱うことで、彼ら自身が野獣になっていったのです」、「他の存在の立場になって

 考えてみられる範囲に限界はありません。共感的想像力に限界はないのです」と語らせている[J・М・クッツエー2003]。

(5)「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という「梟の神の自ら歌った謡」ではじまる『アイヌ神謡集』は、「一木一草に歴史

 が存在し、熊や鮭や花や星が歴史を語り、海川や岩石が歴史を保存するような」アイヌの世界観を代表するものである[本橋2005]。後

 述する「障害者」解放運動の牧口一二氏の提起とも共通する植民地主義が排除した世界観・人間観を学ぶことが、3.11を経験した私た

 ちに強く求められているといえよう。

(6)西川祐子氏は、フランスの人権宣言(1789年)は「男性の権利宣言」であり、人権宣言とそのパロディとして執筆された女権宣言(1791

 年)とを比較対照して読むことによって、「人間・市民・国民の理念がどのようにして女性の不在のまま創られ、女性が何を要求したかを見

 ることができる」と指摘している[西川2000]。

(7)「なり損ないの日本人・国民」と規定されたがゆえに、「日本国民」であることを証明するために、「愛国者」として満州侵略への加担など

 の植民地支配の加害者になっていった問題については、かつて三重県水平社の指導者であった上田音市を取り上げて考察した[宮本

 2002、2012]。

(8)周知のようにハンナ・アーレントは、「人間の複数性、人間の無数の差異性」、「人間による人間の無用化」の問題について生涯をかけ

 て追及した[ハンナ・アーレント1972―1974]。

 

 

【参考文献】

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