ゆめネットみえ通信

「もっとも美しい人間変革の光輝」―宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 1921―1924年』

 今日では、被差別部落(以下、部落)の起源を異民族とする見方の誤りはほとんど明らかにされたと思われますが、そうではない時代がありました。1920年代前半頃までは、部落に対する異民族説が一般的であり、常識的であり、また、そのことを積極的に主張した水平社運動(部落解放運動)は日本と日本社会の変革を背負っているとして多くの人から熱い視線を浴びていました。

 そのような視覚から、戦前の部落解放運動団体である全国水平社の結成以前の1921年から、全国水平社が階級路線へ転換していく1924年までの時期を取りあげたのが宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 1921―1924』(宮崎芳彦遺稿刊行会編集・発行、2019年)です。

 この本の「『解説にかえて』および編集後記」(加藤昌彦氏執筆)によると、著者の宮崎さんは、白百合女子大学児童文学科教授として「児童文学・文化の講座をもち、ゼミで熱心に指導にあたられ」、また、「1980年には被差別部落の児童に向い、やがてライフワークの一つ、西光万吉の全貌に向い、さらにそこから初期社会主義研究に没頭されています」。2009年に、この本の「原稿を世に送り出す前に」、67歳で亡くなられました。

 このように、この本は専門的な研究をまとめたものですが、その内容は『新・水平社運動史』というタイトルにふさわしいものであること、また、100部しか作成されていない私家本で入手が困難であること等から、今回はこの本の内容をできるだけ詳しく紹介し、その後で私の感想を述べることにします・

 

民族自立運動と平野小剣

 1922年3月3日に全国水平社が創立されますが、その創立期・初期の運動について著者の言葉を引用しながら、私なりに要約すれば次のようになるでしょう。

 

 1920年前後から20年代のある時期まで、部落の人々が大和民族のあい

だに散在する異民族であるとする見方は、総理大臣以下の政府の人々、議会人、

新聞人、一般人、部落の人々をあわせて、日本人大多数が共有する常識であっ

た。ロシア革命や第一次世界大戦後のパリ講和会議などで世界的な民族自決の

機運が高まるなかで、それに呼応して立ちあがった部落の人々によって創立さ

れたのが全国水平社であった。したがって、創立期・初期の運動の主流は民族

解放路線、民族自決路線であり、その創始者、首唱者が平野小剣であった。

 福島県の部落出身の平野は、全国水平社創立以前から東京では名の知れた労

働運動家で、単独ながら尖鋭に、民族解放運動の烽火を打ちあげていた。創立

後も平野は、全国の労働運動者、社会主義運動者と全国水平社を結びつける上

で大きな貢献をなし、全国水平社の〈代表者〉〈斡旋者〉と見なされていた。

 また、平野は、初期水平社と国内外の被差別問題との関連においても欠かせ

ない存在であった。全国水平社が、植民地朝鮮、朝鮮の衡平社(1923年4

月に、朝鮮の被差別民である「白丁」への差別撤廃を目的として設立された運

動団体―宮本)、在日朝鮮人の問題に積極的に取り組み始めた画期は、第三回大

会(1924年3月3日)であった。この大会では、関東大震災で虐殺された

朝鮮人の〈亡霊に黙祷を捧げる緊急動議〉や〈朝鮮ノ衡平運動ト連絡ヲ図ル件〉

が提案され可決されたが、そのことに平野は大きな役割を果たした。

 ところで、創立期・初期の水平社の路線は、当初は民族解放・大和民族打倒を唱えていたが、その後、体制権力との交渉重視、〈帝国民族間〉の融和の路線へと転換していった。全国水平社第2回大会後の1923年3月9日~16日にかけて行われた総理大臣以下との会見などの体制権力に対する交渉は、全国水平社・水平社運動の公的認知、公的発言権を獲得するとともに、地方改善費の〈直接水平社に下付〉という成果をあげた。また、宮内大臣の牧野伸顕との〈会談〉では、牧野が「摂政宮(のちの昭和天皇―宮本)に上奏文を取りつごう」と語り、部落解放が天皇制日本の根本問題という認識を公にした。このことによって、その後の全国水平社・水平社運動に明治天皇崇拝、摂政宮敬愛熱が一挙に高まった。

 こうした動向に連動して、1923年3月25日、衆議院議員の横田千之助が一君万民民主主義のイデオロギーに基づいて、部落に対する差別的表現や士族の族籍称号の廃止を内容とする「因習打破に関する建議案」を提出し、衆議院において全会一致で可決された。その後、横田は、政友会から立候補した有馬頼寧らと、貴族院改革を主張した。

全国水平社が体制権力との交渉重視、〈帝国民族間〉の融和の路線に転換したのは、体制内の主義主張が近く人間性を共感できる人々との出会いがあり、彼らとの連帯による改革の可能性を見出したからであった。革命路線しか道がなかったわけではなく、改革改造路線もありえたのである。

 この現実重視の路線による成果は新聞で全国ニュースとなり、急速に各地に水平社ができ、参加人数や地域ともに日本規模に拡大し、運動内外のリ―ダ―たちがひとしく、当年のうちに水平社運動は国内の全部落を組織するにちがいないと予測していた。

 このように、1922年から23年の時点の全国水平社は、集団としての結集度、規模、集団実力、(武力をふくむ)闘争の豊富な経験、瞬発力、機動力、爆発力の点で突出しており、日本を左右しかねない巨大な力を有する集団と認識されていた。そうしたことから、内務省・警察は全国水平社を注視し、また、それと同じ理由で、アナキズム陣営、共産主義陣営、あるいは社会民主主義者、国家社会主義者陣営の視線も、全国水平社に注がれていた。

 水平社運動史研究者の多くは、共産主義史観の影響を受けて、プロレタリア階級路線への明確化、天皇制打倒を掲げた第二期の運動を進歩や前進と考えて、創立期・初期に比べて高く評価するが、この第一期の方がはるかに高く評価できる。差別糾弾は激烈であり、集団行動は熱発して行われた。変革の意志は高潮しており、思想も路線も多様、個別でゆたかであった。なにより、自由、自主であり、自立していて、しかも、体制、権力、軍部、内務省、警察にとっては、第二期より第一期の方がはるかに危機意識をいだいていたのうはうたがいない。

 

日本共産党による水平社の〈統括〉

 続いて著者は、強力、巨大で、成長株で、魅力たっぷりであり、最盛期であった全国水平社を取りこんで日本革命を遂行しようとしたのが佐野学(全国水平社創立に影響を与えた論文「特殊部落民解放論」を『解放』1921年7月号に発表―宮本)が主導した日本共産党であるとして、新資料等を活用して次のように述べています。

 

 1923年3月4日の共産党第二回大会において、共産党組織内の専門部の一つに〈水平部〉が設けられ、『特殊部落一千年史』(1924年)の著者である高橋貞樹を委員長として、佐野学(この大会で最高指導者である国際幹事に就任)、山川均を委員とする責任体制がととのった。この水平部の主目的は、全国水平社・水平社運動の〈統括〉を使命とする〈水平共産党〉の結成であった。

 1923年3月2・3日に開かれた全国水平社第二回大会で共産党水平部の最初の水平社内組織である〈少壮水平社〉の旗上げがなされ、それを母体として同年11月には全水青年同盟(水平共産党)が成立した。その後、青年同盟は1925年9月に全水無産同盟に改編された。全国水平社の名を冠するものの、共産党の直接指揮下に入った。こうした水平社の人々を共産党の指揮下に組みこむべく組織活動につとめたのが共産党水平部の委員長・高橋貞樹であった。

 高橋貞樹ら全水青年同盟は、委員長の南梅吉や平野らの体制権力(中央)との交渉重視、〈帝国民族間〉の融和の路線を否定して、水平社を共産党の階級革命路線に従属させるために、1924年3月3日に開かれた全国水平社第三回大会において、首脳部が行ってきた〈大臣訪問〉の中止と労農ロシア(ソ連)承認を可決させた。さらに同年12月の全水府県委員長会議において、「同和通信」社長の遠島哲男が警視庁のスパイとして、南や平野ら全水幹部に〈通信員〉という名目で毎月金を与え、水平社の内部情報を集めていたとされる〈遠島事

件〉を口実に、中央交渉・一君万民派のリーダー南、平野の追放、創立幹部総退陣をかちとり、執行部を掌握した。

 こうして共産党が実権をにぎった全水中央は、それまでの共通感情を基盤とした自由連帯型の組織から、〈量より質〉〈組織と訓練と教化〉を掲げて中央集権、権力集中型の組織へと改変し、脱落者を続々と発生させるとともに、日本全国の被差別部落の人々の組織化を放棄した。さらに、水平社運動の根本である部落差別への〈徹底的糾弾〉に関心をはらうことがなく部落大衆の海から浮

きあがり、警察の手頃な標的となった。

 

 以上が私なりのおおまかな要約ですが、次にこの本に対する私の評価、意見を述べてみたいと思います。

 

水平社運動の世界史的な位置

 全国水平社の創立期・初期において、部落の人々が異民族であり、運動の柱が民族解放運動、民族自決運動と見られていたことについては、戦後はじめての本格的な部落の通史であった部落問題研究所編刊『部落の歴史と解放運動』(1954年)の「現代篇」のなかで、井上清さんが指摘していました。しかし、階級闘争を至上とする共産主義・社会主義史観の根強いに影響によって、そのことの重要性は認識されないままに、この問題は長い間放置されてきました。

 そうした中で、一次資料(その当時の資料)によって実像を再現し、部落についての異民族観や民族自決運動・民族解放運動としての水平社運動観が部落内外に広がりをもつ事実であっことを立証したことの意義は、きわめて大きいといえます。これによって、創立期・初期の水平社運動が民族解放運動としての特徴を持ち、世界史的な民族自決・民族解放運動の潮流の一環としての性格を帯びていたことを確認することができるからです。

 この本のなかでも述べられているように、全国水平社創立以前の1917年にロシア革命、第一次大戦後の民族自決論の提唱、1919年には日本政府によるパリ講和会議での人種差別撤廃案の提唱等は、植民地化され差別に苦しんでいた民族に大きな影響を与えました。パリ講和会議のさなか、同地で第1回のパン・アフリカが開催されましたが、それを組織した合衆国の黒人解放運動の指導者であったW・E・B・デュボイスは、合衆国の黒人差別を先進資本主義国による全世界的な有色人種抑圧ととらえ、合衆国の黒人の運動を世界中の有色人種の闘争の中に位置づけていました。また、第一次世界大戦から1920年代にかけては、アフリカには誇るべき歴史があり、黒人はその再建に向かわなければならいと訴えた全世界黒人改善協会の創設者マーカス・ガ―ヴェイによって「ガ―ヴェイ運動」と呼ばれる大衆運動が合衆国や南アフリカで高揚していました。

 さらに、アジアにおいては、イギリスの植民地支配に対して、インドでガンディーが非暴力・不服従運動を開始し、東アジアでは、1919年、日本に併合された朝鮮で3.1独立運動、中国では5.4運動が起きていました。そして日本では、1921年2月に開かれた帝国公道会の第2回同情融和大会で平野小剣が「檄―民族自決団」のビラを巻き、民族解放運動としての部落解放運動の烽火をあげ、1922年3月3日全国水平社が創立されたのでした。

 1922年7月に創刊された全国水平社の機関誌『水平』にも、ユダヤ民族及びインドやアイルランドにおける民族自決・民族解放運動への共感が語られていますが、この本は創立期・初期の水平社運動が世界の人種主義に対する異議申し立てや民族解放運動の一環だということを自覚・自負していたことを実証したものとして高く評価できるでしょう。

 

「全国水平社奪取計画」

 さらに注目したいのは、佐野学による手書きの未公開コミンテルン報告書「水平運動」(1923年7月)の記述などを分析して、日本共産党(JCP)による全国水平社奪取計画の存在を浮かびあがらせたことです。その佐野学のコミンテルン報告書には、「一、〈水平運動の有力な幹部五名は潜かに正式にJCPに加入してゐる〉。二、〈水平運動内部に「少壮水平社」なる公然の団体がある。これは同運動内部の青年運動であつて共産主義思想によりて指導せられてゐるものである。JCPの水平部は此の少壮水平部の有力者及び既にJCPに加入せる共産党員を中心として水平共産党なる秘密結社の成立を計り、約百名を糾合し得る程度に達してゐる。此団体は6月初めに成立する筈であったが、今回の事件の為に多少遅延することと思われる。〉三、〈現在の水平運動について欠陥と見做されるべき方面を挙ぐれば次の如くである。/(a)組織が散漫であって各地方、己の好むままの組織をとる観がある。代議員制、地方的区画制、中央集権制等、多くの改良の余地がある〉。」(265頁)と記されていました。

 先にも紹介しましたように、この日本共産党・共産党水平部、佐野学・高橋貞樹ラインによる、「〈全水運動を統制する〉(前掲「水平運動」)ための作戦」、「共産主義化計画、全水奪取作戦」(267頁)は、南や平野の追放、創立幹部の総退陣、執行部の掌握等によって着々と実行されていきました。このことについて、著者は「水平社運動の人々の自由、自発、自立、自主の精神を無視した陰謀による組織ののっとりは、今日の非難にあたいする。自由、公開、公明、分権、市民在権は、ようやく今日の日本に根づきつつある基本価値である」(268頁)と厳しく批判しています。

 このように、共産党は、全国水平社・水平社運動の〈統括〉を使命とする〈水平共産党〉(全水青年同盟)を通じて、「思想も路線も多様、個別で、ゆたかで、なにより、自由、自主であり、自立してい」(362頁)た創立時・初期の水平社を破壊したのであり、それが「非難にあたいする」ものであることは言うまでもありません。この本の内容をふまえて、共産主義・社会主義史観の影響をうけていた従来の運動史の周到な吟味・見直しが求められているといえるでしょう。

 なお、戦後に入り、1960年代前半の部落解放同盟においても、共産党に所属し、その影響下にある同盟員が組織の中央機関をにぎり、大衆運動を進める団体の〈自由、自主、自立〉を無視して、共産党の方針を中心に据えた運動を展開しようとしたことが指摘されており(師岡佑行『戦後部落解放論争史』第三巻第Ⅳ章及び同書第四巻、柘植書房)、部落解放運動の〈組織ののっとり〉や〈統括〉は戦前のこの時期に限ったものでないことが明らかにされています。

 

「新・水平社運動史」の構築に向けて

 冒頭で書きましたように、著者の宮崎さんは2009年に亡くなられています。遺稿を編集した本書には、全国水平社・水平社運動にたいする著者の強い思いが読みとれます。最後に、そのような本書のなかで提起されていることを受け継ぎ、さらに深めるために、いくつかの課題について述べてみたいと思います。

 まず、創立期・初期の民族自立運動の底に流れていたもの(原動力)が何であったのかという問題です。この本では触れられていませんが、遺稿の第二巻『平野小剣 民族自立運動の旗手』(2020年4月発行)では、平野小剣を例にあげ、「祖先代々がうけてきた奴隷的な賤視と被虐、そこからの呪詛、激怒、復讐の感情である。」(同書、225頁)と述べられています。

 こうした「復讐、呪いの情念、叛逆反抗の感情」が平野だけでなかったことは、全水青年同盟の高橋貞樹『特殊部落一千年史』(1924年)のなかにも「水平社の運動の底に一貫するものは同胞を差別する意味なき歴史的伝統に対する憤激の涙と怒りである。水平社をかくして早く結束を固うし断乎たる闘争をよくせしめたものはこの憤りと涙とである。水平運動の感情に於ては最も強く動因たるものである。強く温き兄弟連帯の感情はここに芽ざす。」(世界文庫版、294頁)と記されていることからも確認できます。したがって、水平運動の底流にある「呪詛、激怒、復讐の感情」あるいは「憤激の涙と怒り」の感情は、その当時の部落の人々に共通したものとして理解することができます。

もちろん、著者が指摘しているように、このような感情は部落の人々に限ったわけではなく、「労働者階級の人々、窮民たちも在日朝鮮人の人々、植民地の人々、それにおそらく沖縄、アイヌの人々も加えて、共通する」(遺稿第二巻、9頁)ものでした。しかし、「水平社運動の人々の口からは、一千年来の祖先から自分、わが子にいたるまでの憤怒、復讐、呪詛の怨念がほとばしった。(略)佐野学と推定される日本共産党の代表者が、水平社運動の人々の〈団結心、復讐心、等の心理的条件が完全である〉と、コミンテルンへ向けて特記した」(同前)ように、その感情、情念の強さは「特記」すべきものがありました。

 そのことと共に、私が注目したいのは、韓国の詩人・金芝河が「国家を超えて、私の考える朝鮮民衆の『恨』は、日本の被差別部落の心情と同じものではないのか。細かな点では違うでしょうけれども。その点で、韓国と日本に未解決な問題もあるが、朝鮮民衆と被差別部落の民衆の呼吸は一致する。」(拙稿「開発と共生・共同―中上健次の闘い」『革』第28号、2018年2月、65頁)と語っているように、部落の人々のこのような感情が朝鮮民衆の「恨」と深い一致を見せているということです。

 金芝河が民族解放運動の原動力として「恨」をとらえ、その解放の主体を「犯罪者集団」「賤民集団」の「恨」のうちに見ていたことはよく知られています。そしてそれは、アルジェリアの精神分析医であると同時に革命家であったフランツ・ファノンの思想にも共通していると言われています(海老坂武『フランツ・ファノン』講談社、1981年、373頁)。そうしたことからすると、水平社運動の原動力となっていた「呪詛、激怒、復讐」、あるいは「憤激の涙と怒り」という部落の人々の共通感情は、差別され植民地化された人々・地域の世界的な運動の底に流れていたものと同じものとして位置づけられるのではないでしょうか。また、このような感情を基底に据えて書かれた「日本で最初の人権宣言」といわれている全国水平社創立宣言も、そうした視座から見直される必要があるのではないでしょうか。

 次に、水平社運動から〈異民族説〉がすたれ、民族自立運動であるとする主張が消えるのはいつか、それはどんな意味を持つのかという問題です。著者は、日本軍が謀略をもって行った二つの事件(15年戦争開始と日中戦争開始)のあいだに民族自決路線が消滅したという金静美『水平運動史研究【民族差別批判】』(1994年)の指摘(同書253頁)を引用したあと、「平野の没年は1940(昭和15)年である。略年譜によると1938年に平野の部落解放運動の記述は終わっている」(35頁)とのみ記しています。

 別のところで、著者は、政府と議会が全国水平社の叛乱の潜在性に強迫的な恐怖をもっていて、その恐怖に促されて、「因習打破建議案」の可決をはかったということを述べていますが(182頁)、1930年代における「〈異民族説〉がすたれ、民族自立運動であるとする主張が消えるの」も、全国水平社の叛乱を未然に防いで国民へ統合するための政策と関連づけて考える必要があると思います。

 この点について、日本史研究者の黒川みどりさんは、1930年代に「国民一体を支えるための被差別部落起源論の組み直しが行われ」、「政府や融和団体などが記したものにおいては、すでに『人種』『民族』のちがいをいうようなものはほとんどなくなり」、「『大日本帝国』、さらには『大東亜共栄圏』の一体性を引き出すという要請」によって『日本民族』という概念のなかに被差別部落を取りこんでいった。」(『近代部落史』平凡社新書、2011年)と指摘しています。

 こうして、創立期・初期において自己の民族的な独自性の発見と民族的な誇りを強調していた水平社運動も、超越的な天皇のもと、すべての国民は一体化され平等化されるという国体論と結びついて、民族的独自性・異質性を否定して「日本民族」に自己画定する方向を選択したのでした。そして、そのことはとりもなおさず、「帝国本国の一級国民がその他の人種や民族を支配するために差別し、序列化していく体制」(ひろたまさき『差別から見る日本の歴史』解放出版社、2008年、292頁)の中に統合されることを意味していたのでした。

 さらにまた、歴史家の網野善彦さんが「『日本民族』といった場合、それがはたして日本国国民のすべてをおおうものと考えられているのか否かがまず問題である。そしてそれをさらにつきつめると『日本民族』という集団自体が、これまで自明な存在として常識的に考えられてきたような意味で、はたして存在するのかどうかすら、一個の問題となりうるといわくなくてはならない。」(『日本論の視座―列島の社会と視座』小学館、1990年、23頁)と指摘しているように、「日本民族」を実体的に捉える考え方そのものにも大きな問題が含まれていたのでした。

最後は、宮崎さんの「1922年春に、日本の部落解放運動の中から〈世界人類〉意識、人類同胞意識が鮮烈な産ぶ声をたて、〈人間が神に代る時代を創造〉しなければならぬ〉と、明確に近代人屹立が声明されている。全国水平社・水平社運動はやはり、論者たち日本人がもちえた、もっとも美しい人間変革の光輝であった。」(99頁)という水平社運動観の問題です。

 なぜ全国水平社・水平社運動は、宮崎さんが言うような〈日本人がもちえた、もっとも美しい人間変革の光輝〉を発することができたのか、やはり問われなければならないと思います。水俣の問題を深く受け止めて思想とした石牟礼道子さんは「権威づけられず、何の恩恵にも欲さない、いつも無名で生き続けてきた最下層の人間たち、それでもなお世の中にある力を持ち続けて、評価されることのない、そういう力こそが人類をほんとうに生き変わらせていく力だと思います。」(『石牟礼道子全集 不知火』第3巻、藤原書店、2004年、501頁)と語っていますが、私も、そうしたことを可能ならしめたのは、差別され抑圧された人たちの持つ力の存在があったからだと考えています。そのためにも、部落民衆の生活世界が持っている壮大な可能性の解明が「新・水平社運動史」構築に向けての最も重要な課題の一つではないかと、私には思われます。 

 なお、関東水平社の機関紙『関東水平運動』に関わって、「念のために平野が発行編輯印刷人を兼ねた『関東水平運動』1号(7月15日)・2号(8月15日)にあたると、東京の有力同人北村市郎、藤田、遠藤が出てくる。北村市郎は『関東水平運動』発行の平野の助手格で(『関東水平運動』1号)で、それ以上はわからない。」(284頁)という記述があります。

 この「北村市郎」とは、松阪の都市部落出身で、三重県水平社の前身である「徹真同志社」の一員で、全国水平社創立大会に参加し、その後も地元で活動を続けていた人物です。大山峻峰・田中圭一編『三重のいしぶみ』3(解放運動無名戦士の碑合祀祭記念実行委員会、1977年)には、「大正12年、東京の関東水平新聞の業務に携わりながら、関東地方の水平社を廻り解放運動を続ける。関東大震災のあと帰郷、一時掃木造職工となる。」(同書、23頁)と記載されています。