皆さん、覚醒は進んでいますか?

 

注意力と記憶では日常誰にでもある注意力を特別高めることで、魂が肉体から意識的に離れていくことができるという内容でした。

 

いつもは外から来る刺激に応じて分散させている魂の諸力を、意識の中心に据えた表象、感覚、衝動に集中させるのです。

それによって、魂の諸力がひとつに合わさり、人生の行間でまどろんでいた内的注意力が意識化されます。そして魂が意識的に肉体から引き離されるのです。

 

霊的研究者は、通常は死後に体験する精神世界を、意識的に生きている状態で体験することで、霊的世界についての認識を得ていくのです。

その方法のひとつ目が、注意力を無限に高めるという方法でした。

 

次の方法は帰依です。

 

私たちが注意力を高めるだけでなく、その上にさらに別の力をも同じように無限に高めるとき、言語力は、肉体から分離されます。この別の力とは「帰依(きえ)」のことです。宗教的な感じ方をしたり、誰かを愛したり、熱心に事物を探求したり、われを忘れたりするとき、私たちは帰依を力として体験します。

 

日常生活や科学研究においては、帰依の力はただ行間を流れていくだけです。

霊学研究者はこの力を、無限に強めなければなりません。

すべての肢体活動が鎮まり、感覚が沈黙し、何もしないでひたすら帰依している深い睡眠のように、私たちは生活の流れにひらすら帰依しなければなりません。

 

そうすると、普通は眠り込み、意識を失ってしまいます。

しかし、人間は内的に要求に従って、すべての活動を停止させ、肢体のすべての活動を抑えようと努力しながらも、目覚め続け、生活の流れに身を委ねて、霊界が望むこと以外は何もやりたくない、という感情を発達させることもできるのです。

 

霊学研究者がこの感情を繰り返して、注意力を高めることとは別に呼び起こすならば、限りない帰依が魂をますます力づけるでしょう。

 

この二つの行法は、別々になされなければなりません。

なぜなら、それらは互いに矛盾しているからです。

 

注意力は緊張と、対象に対する一方向的な方向づけとを求めます。

帰依は、宗教感情や愛する人への帰依のように、深い帰依を、受け身の帰依を求めます

 

限りない帰依の高まりから受け取る果実は、自分の霊的本姓が肉体活動から切り離されるということです。

そのようなときには、いつもは言葉のなかに注ぎ込まれる力が、外的言語活動から切り離され、魂的・霊的な状態に留まり続けることができるのです。

 

そのときにも、ふたたび霊的化学によって、言語力がいつもの物質的・感覚的な結びつきから引き離されます。そして霊聴、つまり霊的聴覚体験が生じるのです。

 

さらにまた、身体の外に抜け出して、事物の中に沈潜し、事物の内的本姓を知覚し、その本性を内的身振りによって追体験することもできます。

それはあたかも私たちが、特別の模倣才能を発揮して、私たちの課題を身振りで表現しようと試みているかのようです。

 

魂は身体から切り放されたとき、熱心に真似ながら演技しようとするのです。

 

事物の知覚は、私たちが事物に従い、事物の内的本姓のいとなみを模倣することによって可能となります。

 

外的感覚世界における私たちは、受動的に耳を傾けますが、霊学研究者である私たちは、事物の本性に中へ沈潜して、その事物の内的いとなみに耳を傾けるのです。

ピタゴラスが宇宙音楽(スフェーレンムジーク)と呼んだものは、単なる創造の産物ではありません。ピタゴラスは音楽を発しながら聴いていました。事物の本性に沈潜するときには、語りながら聴き、聴きながら語るのです。このようにして生じるのが、真の霊聴(インスピレーション)です。

 

     ルドルフ・シュタイナー「死後の生活(P18から)」

 

帰依によって言語力を肉体から切り離すことによって、霊聴(インスピレーション)が生じると言っています。

しかし、私にとって、「帰依」というものを理解するのは、とても難しいです。

これまでにも、ある宗教に没頭した時代もありました。

しかし、それは私にとって、あまり良い思い出にはなっていません。

ユングに傾倒した時代もありました。

そしてシュタイナーに傾倒した時代もありました。

 

東日本大震災で北海道へ移住した際に、ユングの本もシュタイナーの本も持ち運ぶことができずに、捨ててしまいました。

 

ところが、元妻が、シュタイナーの本をいくつか古本屋で買って、送ってくれたのです。

 

それで、子どもたちがそれぞれに住み始め、とうとう誰もいなくなってひとり暮らしになったタイミングで、再びシュタイナーの本を手にすることができたのです。

 

そして、読み返してみると、それまでにはほとんど理解できていなかった内容が、少しずつ、理解できるようになってきたのです。

必要な時に、必要なモノが現れ、それを読む環境も整えられたのです。

 

 

 

生徒が学ぶ準備ができたとき、マスターが現れる。

 

まさに、そんな感じです。

 

そして、このことは、霊的(精神的)世界を探求する上で、とても大切なことだと思います。

ですから、シュタイナーは「準備」をすることの重要性を強調するのです。

「成果」を求めるのではなく、ひたすら謙虚に準備しつづけていくこと。

これが、霊的研究者の基本的な姿勢でなければならないのです。

 

そして、準備ができる前には、あらゆる成果を得ない方がいいのです。

準備不足で、何かを知り得たように感じるのはとても危険だからです。

 

それは私が以前に体験したことでした。

ユングの研究をし、夢日記をつけて夢分析を自分でしていました。

すると、夢が自分を導いてくれているのを確信したのです。

 

しかし、私には十分な準備ができていなかったので、いわゆるインフレーション(自我肥大)に陥ってしまったのです。

自分はすべてのことを理解したような気になってしまったのです。

ユングの心理学で、あらゆることが分析できるように思い込んでしまったのです。

 

そしてその勢いで、シュタイナーを分析しようと考えたのです。

ところが、シュタイナーはユングの心理学ではまったく理解できなかったのです。

 

ほぼ同時代に生きたユングとシュタイナーなのですが、互いに関わったり、言及するようなことはなかったようです。

わたしにはユングとシュタイナーは通じるところがあるように思えたのですが、シュタイナーにとってはユングの心理学ではいくら神話などを扱っても、シンクロニシティの概念を導いても、所詮、霊的認識とは別のものであり、それらの断片をかき集めて学問的に構成たところで、実際の霊的世界を霊体験的にとらえた真実には到達しえないものだったのです。

 

シュタイナーに言わせると、それらはあくまでも悟性的な一面をとらえた学問でしかなかったのでしょう。

 

私たちの学問的なアプローチの仕方にはおのずと限界があるのです。

 

人間はもともと前進するのに手足を四つとも使わなければならないのです。

子どもは後になってから、真直に立ち上がる力を発達させるのです。内的体験を通して、拠り所のない水平的生活から垂直生活にまで発展していくということの中に、人間の本質的な在り方が示されているのです。

 

人間の中にはさまざまな力の総計が働き、それが拠り所のない状況から人間を救い出して、人間を本来の意味での地上の人間にしてくれるのです。

 

空間の方向づけを可能にしてくれる力でもあるこの働きは、非常に隠された状態で働いています。この力のことが理解できるようになるには、霊学を深く学ばなければなりません。それは力のシステムであり、大きな集合体なのです。

 

その力は子どもの頃にすべて消費されてしまうのではなく、その後も人間の中に存在し続けますが、外的社会生活においても、学問生活においても、利用されぬままに留まっています。

 

人間は魂の修行である高められた注意力と帰依を通して、子どものときに持っていたこの力が自分の中にまだ存在し、そして霊的な意味での真直に立ち上がる力となっていることを知らされるのです。

 

その結果、人間は内的な表現演技、内的な身振りに加えて、さらに内的な相貌をも自分の霊的・魂的部分に表すことができるようになります。

 

人間が自分の外に自分の体を見出すようになりますと、自分の体を地上で垂直に立ち上がらせた力の本質を知るときが次第に近づいてきます。

 

人間はそれによって、この力に別の方向づけを与え、自分の中から子どもの頃とは異なる形姿を作り出すようにします。

人間は自分に現実の形姿を与えるだけではなく、内的な動的形姿を発達させ、地上の人間としての自分とは異なる相貌を、自分の霊的・魂的な部分に与えることができるようになります。

 

それによって人間は、従来とは異なる霊的経過の中に沈潜して、はいはいから直立歩行にまで人間を発達させる力を用いて、自分を神霊たちと内的に似た存在に変え、そして神霊たちを知覚できるようにするのです。

 

これが真の霊的合一(インチューション)なのです。

 

     ルドルフ・シュタイナー「死後の生活(P18から)」

 

子どもは十分にはいはいの時代を体験しなければなりません。

ハイハイを十分にさせずに、立つ訓練をさせてはならないのです。

 

早期に立った子どもたちは、何かのきっかけで、子ども返りをして、赤ちゃんだったときのようにハイハイをすることがあります。

 

 

 

 

フェキオン山のスフィンクスが通りかかる人間に問いかけたという「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か?」というなぞなぞは世界的に有名である。答えられなかった者はスフィンクスに食い殺されたそうだが、ある旅人(オイディプス)が正解を答えるとスフィンクスは崖から身を投げたという。このなぞなぞの答えは「人間」。赤ん坊の頃は四つん這い、やがて二本足で立つようになるが、老人になると杖を突くので三本足になる、というわけである。

スフィンクスの謎の答えは確かに「人間」ではあります。

しかし、それは最後は老人となって杖をつくから三本足になるというのは、このシュタイナーの霊的修行の意味から紐解いていくと、解釈が違うのではないでしょうか?

 

三本足になるというのは、杖ではなく、自らが自分に働きかけて、霊的に認識を得ていく存在だからこそ、人間なのです。

 

その三本目の足とは、子どもの頃に、四本足だったものを二本足に変えた力が杖、つまり支えとなって、霊的認識を得ていくのだと言っているのです。