ユメフダ -6ページ目

ユメフダ

たまたまタロットが得意な私の日常をつづりました。

週末の夜、家族で鍋を囲んでいました。

旦那さんは平日は帰るのが遅いので、

鍋のようなみんなでゆっくり食べたい食事は

週末になることが多いのです。

いつものように、みんなで鍋をつついていると、

旦那さんが急につぶやきました。


「あぁぁ~っ 幸せだなぁ~っ (*ノД`*)」


誰に聞かせるともなく言ってましたが

大きな息を吐きながら、しみじみと言ってました。

それは心の底からの言葉のように聞こえました。

…私はそれを聞いてすっごく安心しました。


昨今のいろいろで、

きっと心情的には、私より旦那さんのほうがきついはず。

でも旦那さんはちゃんとこんな深い幸せを

感じてくれてるんだな~ じゃあ大丈夫だな~ って。


いろいろ私に言わない辛さもあるのでしょうし、

内心心配している部分もあったのですが、

こんな中でもちゃんと幸せを見つけて噛みしめられる彼のもとでなら、

この家族はきっと楽しく幸せにやっていけると思いました。


その夜もしみじみ幸せに感謝して

家族4人で氏神様に手を合わせた我が家でした。

1歳半の下の子もちゃんとお手て合わせてかわいいんですよ (*´∀人`*)♪


ペタしてね

私はもともと期待の鬼みたいなところがあって(笑)

勝手に人に期待をかけ、うまくいかなかったら

激しく落胆するということを繰り返してきました。

一番の被害者は旦那さんです (; ^ω^)


「期待を手放す」というようなことを何度も耳にし、

手放そう、手放そうと頑張っていた時期もありました。

でも、結局意識しないとすぐ期待してしまうのです。

自分の中で、これがこうなって、ああなって、

きっとうまくいく!なんて思っちゃってて、

思うとおりにいかないと

どうにかして思うとおりにいかせようと努力する…


…なんか書いててえらいムダなことだなと思いますね。


というのも、先日気付いたんです。

私はいつのまにか「期待」というものをしなくなっていた… Σ(゜∀゜ノ)ノ


すごくいいことがあったのに、いつもだったらそこにすごく期待をかけるのに、

「まぁそうはいかないかもしれないし。なるようになるでしょ。」

と思っているのです。

自分にはどうしようもない、大きな流れがある。

ここ一年の経験で、それを実感しています。


一種の諦念、かもしれません。

期待してがっかりするということをやりすぎたのかな(笑)

ただ、「期待したって無駄」というひねくれた感じではないんです。

「期待」が現実を変えるわけではない、というふうに思うようになっているんです。


「期待」が影響を与えるのは、現実ではなく、

自分の感情だったり、相手の感情だったりします。

胸の高鳴りみたいなメリットはあるかもしれませんが、

がっかりしたときのデメリットもあります。

間接的にですが、現実をガッと進ませるエネルギーはあるかもしれないし、

逆に障害になることもあるかもしれない。

「期待」したからといって、うまくいくわけでも、うまくいかないわけでもない。

と、今の私は思っています。


だから別に良くも悪くもないんですけど、

なんていうか「期待」そのものが人生の演出の一種のように感じてしまって、

そういうのやって盛り上がるのが好きだったんだけど、

今はシンプルイズベストで、別にやらなくていいという感じになってきました。


あ、別の言い方を思いついた。

「期待」というテレビを消す、みたいなイメージ。

テレビって見てると盛り上がったりして楽しいけど、

結局テレビの中の出来事というか。

そして、テレビを切ると、シーンとする (* ゚∀゚)


テレビから得るものも多いんだけど、テレビを消した時間で得るものもある。

今はテレビを消して一日を過ごしたい、みたいな気分です。

伝わるかな (; ^ω^)

静かな一日はいいもんです。(疲れてんのか?笑)

あ、でもまだちょっとテレビつけてるときもある。

音量1くらいで(笑)


大きな期待ってどんな感じだか思い出せなくなってきた。

すごく期待してたときってどんなんだっただろう。

もちろん、ゼロになった訳ではないので、

また期待の気持ちが膨らんできたときには

観察してみたいと思います♪


ペタしてね

昨日、一昨日と、久しぶりに涙を流した。

誰とケンカしたわけでもなく、一人で、

苦渋の選択、みたいなのをしたら涙が出てきた。

選択だけじゃなく、行動を起こしたときに、だけどね。

ずっと停滞しているのもいやだったので

今ある中で最善の選択をしてみようと思った。

しない、という選択はあったし、

それを選べば涙せずに済んだけど、

それは最善とは思えなかった。

何事も、泣かずに楽に進めばいいけれど

もちろんそうでないときもあるわけで

今がそのときかと、涙を飲んで2つの行動を起こした。


すると…

別のところで3つくらいのいいことが起こった!

それは旦那さんのところでなんだけど、

私の行動も回りまわって家族のためなので、

なんかつながってる気がして。


2歩下がって3歩進んだかな?

それなら、全然下がったって構わない。

いや、そもそも下がってなかったのかな。

苦渋の前進だったのかもしれない。

思えば涙した苦渋の選択も、迷った末ではなかった。

迷うどころか考えずに行動した感じがする。

これしかない、と。

勘というほど手探りのモノでもなく、

行動すると決まっていたかのような行動。

行動してしまってからいろいろ考えた。

なんで行動したの?と。

でも答えは、それしかなかったから、という感じ。


そんな苦渋の選択は、涙を流して実行したにも関わらず、

今のところ私の人生になんの影響も与えていない(笑)

選択したけど、話が進まなかったのだ (; ^ω^)

(こういうことがあるから、人生長い目で見て

一喜一憂しないようにしようと終わってからいつも思う…)

ただ、感情とエネルギーは、この選択によって

ぶわっと動いた感じがしている。


動かずにはいられなくなっている。

ここに停滞しているのも、タイムリミットかも。


ちなみにこうやって人生に動きが出てきたタイミングは

毎晩家族で氏神様に手を合わせる習慣が始まったことと

無関係のようには思えない。

始めてから2週間後くらいからかな、

それまで下降気味だった状況に一筋の光が差し込んだ。

氏神様のおかげかもしれないし、

手を合わせる心境になった私たちの変化が引き寄せたのかもしれない。

毎晩、今日も無事に過ごせたと手を合わせて感謝をすることが

心の支えになっている。

どうかこういう感謝の日々がずっと続いていきますように (o^人^o)


ペタしてね

ふっと、腑におちました。


私ってだれ?


私ってつまり、この世界を見ている人だよね。


一番気にかかっていたり、

一番正しいと思っていたり、

一番都合よくなるように、世界をコントロールしたくなる存在。


いろんな人のこと気になるけど、

一番行く末が気になるのは私。

他のすべての人と一線を画す、

たった一人の私。


でも…

あの人もこの人も、私なんだよね。

あの人の「私」はあの人。

この人の「私」はこの人。


あれ、じゃあ、みんな私じゃん。


そういうこと?

みんな私って言葉、最近よく目にしていたけど

そういうこと?


みんな、自分の視点から世界を見ている。

見え方は違ったとしても、

この私(ユーコ)と同じように自分が世界の中心にいるのね。


そこに思いを馳せると、すごく壮大な気分になる。

何、世界ってそんなにすごいの?

60億の人が、こんなに自分中心の大きな世界を見ているの?

(自分中心というと誤解を生みそうですが、自分の目で世界を見ているということ)


だとしたら、そんなにも大きなものの中の、一人ひとり。

大差ないんじゃないの?一緒なんじゃないの?

大きな大きなシステムの中の、

一つ一つの目にすぎないんじゃないの?


あぁうまく説明できないけど、そこに思いを馳せたときの感覚は、

宇宙の壮大さを考えたときのように気が遠くなるのと同じ。

そしてこの感覚は、私が子どもの頃からとても好きなものだ。


みんな、私なんだね。

今までとは違う意味で理解が始まったよ。

これが私にこれから、どう生きていくんだろう。

楽しみ (o^ω^o)


ペタしてね

少しずつ、ブログを書いていきたいと思っています~。



幸せというのは、本当に「状況」によらない。

それを私に本気でわからせようとしてるんだろう、ここ一年の流れは。

こうまでならないと私はわからなかったか、とおかしくもあるし (; ^ω^)

大変ではあったけど、この流れにありがたさも感じている。

今、私は状況によらない幸せを味わっている。


「状況」ってなんだろう。

それって、そういうことだというだけで、それ以上でも以下でもない。

「その状況が嫌だ」と思ってるのは自分。

他の人にとってはそれは嫌ではないかもしれないし、

嫌だとしてもレベルは人それぞれだろう。


今の本音は、未来に怖さはある。

でも、前ほどではない。(最初は平静でいられないくらい怖かった)

そして、どんな状況になっても私は大丈夫だろうという信頼が

生まれてきている。

不安はまだつきまとっているけど、

それでも「平穏」でいるための考え方や

いつどんなときでも幸せを見つける視点は

この一年で身についてきたと思う。

これは、私が今回のことで得た宝物だな。


どんな状況にあっても、とても大事な一日一日なのには変わりない。

その一日を出来る限り幸せに過ごしていく視点を持つことは、

自分の支えになるのではないかと思う。



タロットで相談を受けさせていただいていて、

本当に悩んで落ち込んでどうしたらいいかわからなくて…

っていうお客様の気持ちがよくわかる。


でも本当は大丈夫なんだよ。

どうなったって、私たちは大丈夫。


…ということを、伝えていきたいと思うようになってきた。

身をもって経験したから、言えるようになってきたのかも。

でも、まだうまく言葉にできないな…


タロットは本当に「状況」をよく表してくれる。

それを「快」ととるか「不快」ととるかは人それぞれで

どう進んだらいいかという正解なんてない。

私たちは本来どうなったって大丈夫なんだから、

その「本来大丈夫」に行きつくまでの方法を

カードの出す「状況」と本人のとらえ方(反応)から

読み解いていくことが最近特に多い気がする。

あ、私もそうやって勉強させてもらってるのか。


私はそういう内観のためのタロットの使い方が好きだし、

そういうことが私の伝えたいことだとしたら、

タロットではない方法があるのかも、とも思う。

未来の私は、どういう活動をしてるかな。

それを考えるとワクワクする自分もいる。


こうなりたい未来というものがあるとしたら、

そうならないと不幸という視点からじゃなくて、

それが実現しない流れもある中で、

どうやったらそうなれるかとゲームを攻略するような視点から

楽しんで取り組みたいなぁ。

大いなる流れの中で、謙虚に生きていきたい。

そういう人生がいいなぁとふと思いました。


なんかツラツラと書いてみました^^

また気が向いたら書きまーす♪


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