ずっと前に、子どもに対して
「一人の人間として接する」か「親として接する」か
という話がある集まりで出たことがあるのですが、
そのとき私は「親として接する」を選んだんだけど、
ずっとそれでいいのかなと思っていました。
なんか「一人の人間として」というのが
意味から言って正解のような気がしたからです。
でも、自分の中には確実に「親として」「親だからこそ」
という気持ちで接している部分があるので
(そしてそれこそが喜びにつながっているので)
選ぶとしたらまずそっち、という感じで選んだのでした。
で、ちょっと話はそれますが…
ここ数日、自分以外の人を、
自分と同じように生きている人と見よう、と
意識しながらいて、
子どもについてもよく考えるようになっていました。
昨日の帰り道、バイクが見たいといって、
すぐ近くにいたバイクのお兄ちゃんがその場からいなくなるまで
5分ほど動かなかった上の子。
ちょっと強く言えば諦めて動きそうでしたが、
ふと、息子も私と同じ、大事な自分の人生を持っている人間だと思い直し、
息子の「今」みたいなものを想像しました。
目の前にはかっこいいバイク。
こんなに近くで人が動かすところを見たことない。
そりゃ、見たいだろう。結構強い欲求では。
息子は遊歩道のちょっと離れたところにいて、
私とはバイクを見る角度が違ったのですが、
その息子から見たバイクが見えた気がしました。
ま、そんな急いで帰らなくてもいいか、と
私は下の子と待っていました。
結局、バイクは出発し、満足げにやってきた上の子。
この子の人生は、今楽しいだろうと思いました。
家に帰ってからは、下の子がソファの上に座る私の
太ももの上に立つ遊びをしにきました。
これは大好きな遊びのようで顔がキラキラしています。
私の太ももの上に乗って、そーっと立ち上がって、
キャーと言いながら倒れてきます。
倒れるときには、私の胸に顔をうずめて
しばらく味わっています(笑)
またふと、下の子の気持ちを想像してみました。
今、とってもこれがやりたいんだな。幸せそう。
そう思うと、下の子から私を見た景色がまた
見えた気がしました。
なんのことはない、子どもの気持ち、意思を、人生を
尊重するということだと思います。
だけど、それを今まであまり意識的には
やってきていませんでした。
むしろ、自分のために、自分を正当化するために、
子どもの人生を尊重しなかったことは…ある (ー'`ー ; )
子どもは自分を取り囲む景色の一部ではない、
子どもは子どもの人生がある。
改めて心に刻みました。
昨日の夜中、明け方かな?
下の子がぱっちり目を覚まして眠らなくなりました。
添い乳もしつくしておっぱい作戦もきかないので、
眠いけど立ち上がって抱っこすることにしました。
ま、これが親の役目だもんね~仕方ないと思いながら
抱っこしていると、ふと、
「人として接するか」「親として接するか」の答えが
自分の中で見つかったのです。
私の中の答えはこう。
「人として接する」のが大前提で、
その上で「親として接する」ことを楽しむ。
生まれた順番的に親になった私、子になった子どもたち。
魂の上下はないから、自分と同じ存在として見るのが大前提。
ただ、私たちはあえてこういう関係で生まれてきた。
それはなんていうか、娯楽に近い気がしました。
魂が参加する育児ゲームみたいな。
(マネーゲームの本にそんなこと書いてあったな)
先に生まれたものとして、
この世の中の仕組みや、生きやすくする術を教えてあげる。
私はそれをやりたくて、楽しみたくて、
「人として接する」魂同士の関係に
「親として接する」という楽しみを追加している。
機会があるごとに考えていた問題ですが、やっと腑に落ちました。
「親として接する」だけでは、子どもを一つの魂として
尊重するのに欠けるパターンもある気がします。
「人として接する」だけでは、きっと私は
ちょっとつまらないのではないかと思います。
なぜなら、親と子という人間関係が大好きだから。
私の子どもに生まれてきてくれて本当に嬉しいと思っているので。
…今、この腑に落ちた部分を、
今度は自分と自分の親にあてはめてみようと思いましたが
全然うまく考えられませんでした。
こちらはまだフィルターがかかっているようです(笑)
ともあれ、一つここ数年の疑問がすっきりした昨日でした♪