批判、批評の類いで埋め尽くされた情報の海を泳いでいると、
気分が悪くなることがある。
なんとも言いがたい切ない感情を覚えるのだ。
互いが互いに罵り合い、人格否定を繰り返している。
あいつがどうだ、あれはどうだからナンダと、
応酬している現状だ。
韓国の沈没船に関しても、背景はどうであれ、
痛ましい事に変わりはない。
しかし、自業自得、ざまあみろ、などの言葉が飛び交い、
沈没した事実を喜んでいる様にすら見える。
インターネットは心の闇をさらけ出す媒体だが、
ここまで日本は荒んでしまったのだろうか。
日本人的な生き方は、自由主義の波に消された、あるいは、
変化が生じてしまったのか。
だが、原因を解明する事に恐らく、意味は無い。
ただ日本人的なものとは何であるかを、
思い出し、それらを全面に出す必要がある。
『敵に塩を送る』それでもいいではないか。
それが日本人なのだ。
他国と同じフィールドにいては結果的に同じなのだ。
そのフィールドのさらに上のより洗練された部分に、
日本独自の「らしさ」があるのだ。
さて、我々は、これから、何ができるのか。
文章屋ならびに表現活動をしている人間は、
必ずどこかで誰かの内面の触れてはならない部分について
言及する必要性がでてくる。
しかし、そこでどのようなタッチでそれらを描写するのか。
ここが肝心なのだ。
なんでもかんでもストレートに表現するというのは、
あまりにつまらないものである。
言葉でも漫画でも、ゲージュツでも同じだ。
社会的なメッセージを込めようとするあまりに完成度が
落ちていくというのはよくある事で、
そこに拘りすぎると思わぬ落とし穴にはまる。
少しだけキケンな香りのする人間の方が魅力的なのであって、
キケンな香りしかしない人間は、ただの教養の無い人間でしかない。
ナイーブな問題をいかに表現するのか。
文章屋の意地とプライドはそこに込められるべきだ。
必ずどこかで誰かの内面の触れてはならない部分について
言及する必要性がでてくる。
しかし、そこでどのようなタッチでそれらを描写するのか。
ここが肝心なのだ。
なんでもかんでもストレートに表現するというのは、
あまりにつまらないものである。
言葉でも漫画でも、ゲージュツでも同じだ。
社会的なメッセージを込めようとするあまりに完成度が
落ちていくというのはよくある事で、
そこに拘りすぎると思わぬ落とし穴にはまる。
少しだけキケンな香りのする人間の方が魅力的なのであって、
キケンな香りしかしない人間は、ただの教養の無い人間でしかない。
ナイーブな問題をいかに表現するのか。
文章屋の意地とプライドはそこに込められるべきだ。
読売か何かの新聞に『死ぬ』というタイトルの詩が掲載されていた。
中学2年生の作品(詳細は省かせていただく)だったが、
煙草や、横断歩道の信号無視 を身近に感じる死とつなげているものだった。
中学生という多感な時期に相応しい物事の感じ方だと思う。
我々は成長するにつれて『当たり前』が増えていき、
『当たり前』に支配されていく。
この当たり前がジョーシキを形作るのだが、
風景の一部のようなアタリマエはジョーシキを非ジョーシキに変えていく。
そして非ジョーシキ人間が増えていくと、
混沌とした世界が幕を開けてしまう。
さて、では、ジョーシキとは、非ジョーシキとは、一体何なのだろう?
と、私は考えこんでしまった。
中学2年生の作品(詳細は省かせていただく)だったが、
煙草や、横断歩道の信号無視 を身近に感じる死とつなげているものだった。
中学生という多感な時期に相応しい物事の感じ方だと思う。
我々は成長するにつれて『当たり前』が増えていき、
『当たり前』に支配されていく。
この当たり前がジョーシキを形作るのだが、
風景の一部のようなアタリマエはジョーシキを非ジョーシキに変えていく。
そして非ジョーシキ人間が増えていくと、
混沌とした世界が幕を開けてしまう。
さて、では、ジョーシキとは、非ジョーシキとは、一体何なのだろう?
と、私は考えこんでしまった。
あれから何年経っただろうか。
若々しき青春の日々。
あれは幻だったのでは。
全てのものが明るく見えて、毎日、新鮮な空気を吸っていた。
ひとときの恋に悩み、誰かの噂を気にしていた。
ん?今も大して変わらないじゃないか。
では何が大きく変わったのだろう。
一つ言える事は何かを知ってしまったからだろう。
それぞれに必要なものを知ってしまったのだ。
それは『あきらめ』かもしれないし、『現実』かもしれない。
『平凡が幸せ』や『守らなければならない』という場合もある。
もしくはそれらが複合的に絡み合った結果か。
必要を知るという事は、大人になるという事なのだ。
しかし、必要と不必要を分け続けると中庸が無くなる。
必要を知り中庸を見極めることが『大人である』のだろう。
いずれにしても、少年少女の時代は戻らない。
少年少女はその時間を大切に過ごしていただきたい。
大人は少年少女に惚れてしまうような言動をしないように。
性癖なのは構わないが、中庸を知るように。
若々しき青春の日々。
あれは幻だったのでは。
全てのものが明るく見えて、毎日、新鮮な空気を吸っていた。
ひとときの恋に悩み、誰かの噂を気にしていた。
ん?今も大して変わらないじゃないか。
では何が大きく変わったのだろう。
一つ言える事は何かを知ってしまったからだろう。
それぞれに必要なものを知ってしまったのだ。
それは『あきらめ』かもしれないし、『現実』かもしれない。
『平凡が幸せ』や『守らなければならない』という場合もある。
もしくはそれらが複合的に絡み合った結果か。
必要を知るという事は、大人になるという事なのだ。
しかし、必要と不必要を分け続けると中庸が無くなる。
必要を知り中庸を見極めることが『大人である』のだろう。
いずれにしても、少年少女の時代は戻らない。
少年少女はその時間を大切に過ごしていただきたい。
大人は少年少女に惚れてしまうような言動をしないように。
性癖なのは構わないが、中庸を知るように。
夜は良い。
深夜になればなるほど良い。
夜の静寂?夜の神秘?いや違う。
では、星空か?晩酌か?それも違う。
深夜は欲望が無いから好きなのだ。
しかし、性欲は別である。男は日常的に性欲を
胸に秘め、あらぬ想像をして粗相をしている生き物だから、
昼夜を問わずというのが正しい。
ここで言う欲望とは、また違う欲を指す。
飯屋は大抵しまっているし(筆者は田舎暮らしの田舎好きである)
店屋もコンビニくらいしか明かりを灯していない。
本屋の類いも、服屋も、していない。
昼は行動的になってしまいがちだから、深夜は都合が良いのである。
また、今宵も欲望から逃げ回りながら文を綴るのだ。
深夜になればなるほど良い。
夜の静寂?夜の神秘?いや違う。
では、星空か?晩酌か?それも違う。
深夜は欲望が無いから好きなのだ。
しかし、性欲は別である。男は日常的に性欲を
胸に秘め、あらぬ想像をして粗相をしている生き物だから、
昼夜を問わずというのが正しい。
ここで言う欲望とは、また違う欲を指す。
飯屋は大抵しまっているし(筆者は田舎暮らしの田舎好きである)
店屋もコンビニくらいしか明かりを灯していない。
本屋の類いも、服屋も、していない。
昼は行動的になってしまいがちだから、深夜は都合が良いのである。
また、今宵も欲望から逃げ回りながら文を綴るのだ。