けど、日露戦争に従軍し、のち
連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣
を歴任した、マジ日本の偉い人。
引退後も政府の重臣の一人として
終戦工作に全身全霊を傾けてくれた。
すなわち東条内閣を打倒し、鈴木貫太郎を
首相に据え、終戦へと舵を切る!!
何より、2・26事件当時の首相であり、
鈴木貫太郎と共に、死の淵を潜り抜けた。
貫太郎さんの様に撃たれはしなかったけど
周囲の者は皆殺され、本人も死んだ、、
として押し入れに隠れ、弔問客を装い
反乱軍の手中から決死の脱出!!という
超々波乱万丈を、コトも無げに語る。。
吉田茂曰く「狸も狸、大狸」 イヤ~太っ腹すぎ。
この本は戦後の昭和25年、毎日新聞連載の
「岡田啓介秘話」に加筆し、貴重な焼け残りの
「ロンドン軍縮問題日記」を付したもの。
昭和5年(1930)のロンドン軍縮は
日本海軍史上「悲劇のロンドン会議」って位
大変な問題で、つまり、、
大正11年(1922)のワシントン軍縮で
主力艦の保有量対英米6割を押しつけられた
・・という不満を背負っての、強硬リベンジ。
当時首相は浜口雄幸、外相幣原喜重郎、
全権若槻礼次郎。岡田さんは軍事参議官、
まとめ役で大汗をかくのだ~(^_^;)
(左端)東郷平八郎、一人おいて岡田さん。
(右)加藤寛治
しかし要求は通らず、結束固かった海軍も
「条約派」と「艦隊派」に分裂してしまうし、
妥結案の不満を、統帥権干犯だ!と言い換え
海軍対政府の喧嘩にもなる。それを
政友会は、浜口民政党内閣打倒に利用する。。
統帥権干犯問題は右翼的な活動になり
クーデターで国を変えようという「桜会」が
出来るのもこの頃。かくして
翌6年の浜口首相暗殺、三月事件、十月事件
結盟団事件、5・15事件、、と、
一気に世間は血生臭くなってしまった。
ここで岡田さんが首相になる!
が、永田鉄山斬殺事件、天皇機関説問題、
からの昭和11年2・26事件。もー大変~
満州事変以来、天皇を絶対の中心とした
天皇親政が日本本来の国体であると主張して
自由主義を排斥する、国体明徴運動が起き
議会政治の根本思想である美濃部博士の
憲法学説を排撃し始めるんだが、、
それがどんどん正体を現して、天皇をかさに
独裁政治へ持っていきたい陸軍が前面に!
「天皇は国家の最高機関である」という
美濃部博士の学説をやり玉に攻撃する。
美濃部達吉博士昭和10年(1935)2月25日
これに、倒閣を狙う政友会も乗っかって
「総理は日本の国体をどう考えるのか!!」
しつこくに執拗に責められた岡田さんは、
とうとう押しきられ、天皇機関説否定の
ような、国体明徴宣言を出す羽目に。。
まぁ、頼りない総理ではある。。けどね、
〈実は今打ち明けるんだが・・〉と前置きし
天皇ご自身は
「天皇は国家の最高機関である。
機関説でいいではないか」 と仰ったそう。
でも岡田さんは、そのお言葉を持ち出して
連中を押さえれば、皇室に累が及ぶ事にも
なりかねん。。と慎み胸に収めるんだ。偉!
かよう茫洋と見せて、やるときゃやるよ~
2・26事件以降引退していた岡田さんは、
戦況悪化すると、終戦工作に全魂注入する!
すなわち、「戦争を始めた内閣が
戦争を終わらせることは不可能だ。」
ならば、引退した重臣たちを結集し、遂に
東條に引退勧告、海相島田も辞めさせる。
憲兵に逮捕される寸前の危険な行為だった。。
さらに「終戦内閣は鈴木貫太郎しかいない!」
とはずっと前からの岡田さんの信念で、
これを実現させる為、陸軍を刺激せぬよう
うまーく、まるーく、収めるのが
海軍大将・岡田大狸の縁の下の力持ち!ダー!!!
ホント、ありがとうございます!
そして全編に滲む岡田大将の優しさ!
「加藤友三郎さんは大変大きな中庸の人でね
自分は加藤さんのお弟子だと思っている」
「高橋是清さんは本当にいい人。高橋さんが
登壇すると満場の拍手。私の内閣の自慢だ」
「山本五十六、あれだけの人物は当時の海軍
にいなかったよ。海軍大臣にしたかった。」
「阿南は主戦論の陸軍を代表する大臣として
心ならず戦争継続を論じなければならない
立場だった。心中察してやりたかった」
そしてさんざん対決した東條にさえ、
「東條も野心だけの人物ではあるまい。
自己陶酔に陥り、冷静な判断ができなかっ
たんだろう」 優しい~~(#^.^#)
岡田啓介海軍大将。気は優しくて力持ち。
荒海に飲み込まれつつも、絶妙な操舵で
国の転覆を防いでくれた、司令官に敬礼!
(^_^ゞ
さんと、警護していた4人の警察官の位牌は
家に置き、生涯弔いを欠かさなかった。