どうしてこの人有名じゃないんでしょう?
当時の 「舎密(せいみ)=ケミストリー」 に変えて
日本で初めて「化学」という言葉を使い始め、
「時間」「午前」「蛋白」「分子」「大気」「空気」
「水蒸気」「軽金属」「重金属」「ブドウ糖」「尿素」
「合成」「化学変化」「気象」の言葉も考案した
当時最先端の知識を持つ科学者さん。
また、蒸気船、飛行機、精糖、製塩、電信、
鉱山開削、兵器など欧米の技術を紹介し、
自らマッチ、ビール、写真機の製造も
日本で初めて行った。スゴいんだぞー。
名前を知ったのは白洲次郎の本だった。
祖父白洲退蔵と川本幸民は、共に兵庫県の
三田(さんだ)藩出身。
維新を目前にして、主君九鬼隆義に対し
幸民は、最新のスナイドル銃購入を進言、
白洲は薩長に寝返るよう説得した、功労者。
さすが白洲の爺ちゃん、機を見るに敏!
ふーん。。と思って読み始めると、
出てくる出てくるビッグネームが次から次。
恩師は蘭学界の「生き仏」、坪井信道。
仲人は蘭学界の「守銭奴?」、伊東玄朴。
この蘭学の二枚看板に可愛がられ、
坪井塾の同僚で生涯の親友が、緒方洪庵。
青木周弼と共に「信道門下の三哲」となる。
「日本物理学の祖」青地林宗の三女と結婚、
(四女は高野長英と結婚)、他にも箕作阮甫、
宇田川玄真・榕菴、杉田成卿(玄白の孫)など、
当代蘭学者が勢揃い、手塚治虫の曾祖父で
ある、●陽だまりの樹の手塚良仙も登場だ~
物理学の体系的著作
緒方洪庵つながりで、橋本左内や福沢諭吉も
教えを乞いに来る中、我が子のように
愛した一番弟子が、薩摩の松木弘安。
文久元年(1861)の遣欧使節団に福沢諭吉と
共に選ばれ、後、外務卿となる寺島宗則だ。
この薩摩の縁で、幸民は島津斉彬に熱望され
三顧の礼を以て、薩摩藩籍に迎えられる。
島津斉彬の洋化計画である「集成館事業」の
技術顧問は、この川本幸民だったのだー。
薩摩藩籍は取得しても、幸民の主たる仕事は
幕府の「蕃書調所」の精煉方(化学部門)。
島津斉彬の死後は幕臣となり、主任教授から
最高幹部へ出世する。上司は勝海舟・川路聖謨
同僚には大村益次郎もいるよ。
「蕃書調所」を直訳?すると
「野蛮な国の書物の調査研究機関」となる。
実は、文化8年(1811)から幕府天文方に設置
された「蛮書和解御用」という翻訳機関を、
安政2年(1855)に「洋学所」に格上げした所、
漢学者の猛反発で「蕃書~」に変更させられた。
時代だねぇ。。
開国後、さすがに蕃書はまずかろう、、と
「洋書調所」→「開成所」 (易経の開物成務から)
維新後は大学南校→開成学校を経て
明治10年(1877) 東京大学になるのであーる。
蘭方医=(蘭学者)には共通点があって、
良家の子弟が少ない。
名だたる大家も、多くは山深い田舎から出て
いて、これは、蘭学がいつ禁令になっても
おかしくない、物騒な学問だったということ。
そして当時、何故か医者の地位は低く、
蘭方医はさらにとりわけ、低い。
その中でも幸民は、さらにマイナーな「理科」
に挑戦した冒険者なわけ。
きっかけは、岳父・青地林宗の
「物理や化学が全ての学問の基礎である」
という教え。これこそが、学問の最上位だ!
日本一の蘭学者に、俺はなる!
静修堂は幸民の塾
来年早々、三谷幸喜「風雲児たち」が始まる。
清洲会議、真田丸・・と来て、蘭学者を選ぶ
コアなセンス、流石。楽しみでしかないっ♪
小西酒造が忠実に復刻していた!