史上初の元号が付された建元元年(BC140)、
15才の若さで即位した。
53年間、という長い治世は輝かしいけれど、
読み終わってみると、大きな山を登り、
そして降りてきたような感じ。
若く登り坂の武帝は、溌剌として大胆!
なんてったって、第一発目の政策が
「賢材抜擢の大号令」。
縁故によらず真に優秀かつ、天子への直諫も
辞さない勇敢な臣を広く求める。偉いやん。
桑弘羊、公孫弘、董仲舒、司馬相如・・
特に東洋のコロンブスとも言える張騫を
西域に派遣して、漢帝国の威を広めた。
今まで絶対に勝てなかった匈奴に対しても
天才衛青大将軍や、若い霍去病を重用して
連戦、連勝、大戦果!版図を大幅に広げた。
語源の人。虎と間違えて射たけど、ちゃんと
刺さってたっちゅう。。司馬遷は李広が好き
そして、司馬遷李陵事件の李陵は孫。
でもやっぱり、山は登れば下りるだけ、
高い山ほど裾野は広く、空気も薄いわけで。
戦時中の挙国一致体制を作るべく、「酷吏」が
蔓延る。張湯、趙禹は「武帝の正義」を本尊に
苛烈な刑罰社会を牛耳った。
「人民と漢帝国は全て武帝陛下の持ち物であり
陛下の壮図に貢献し、法もこれに準じる。」
まるで戦時中の日本みたい。
度重なる匈奴遠征で国庫は空になり、
お約束の貨幣改鋳大混乱、消費税、密告奨励
・・史上稀にみる無茶な苛法の数々は
古代の暴君にも劣らぬ汚点になってしまった。
おまけに、年取った武帝は怒りっぽくなり、
回りは恐怖に震える。
作者は「不機嫌の権化」、「激怒する死神」、と
言っていて、それやこれやで、
司馬遷は史記で武帝を罵倒したんだなぁ。
ただ、司馬遷の如く小役人は、直接武帝とは
殆ど係わりなく、李陵事件の処罰も「酷吏」が
勝手にやったこと、後に武帝は気の毒に思い
位階を上げてやった、、としている。
細かい真偽は判らないけど、後世の大偉人
司馬遷も、当時は小さな小さな存在だった・・
という、武帝とのサイズ感の違いは理解。
司馬遷に言わせりゃ、何の取り柄も無い人間
・・・でも圧倒的大皇帝武帝が、生涯かけて
登ったのは、泰山という天下の権威、最高峰。
やっぱ存在は大きいよね。
倒れ、這うようにして登った、、とか。