●戦後日本共産党私記 @安東仁兵衛 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

安東仁兵衛(じんべえ)は昭和2年生まれ。


1948年、旧制水戸高校在学中に共産党に
入党し、東京大学での学生運動に活躍した
全学連第一世代。


ペンネーム笹田繁、山田年男、川野浩二、
安藤正明、井上竜などを持つ。


あだ名は、アンジン


もうね、わっかんない言葉だらけよ。






二・一 ゼネスト   1947.2.1
  吉田茂「労働組合不逞の輩」発言に反発し
  全官公庁共闘が無期限ストを宣言したが
  マッカーサーの中止命令で頓挫。

大細胞
  東大内の共産党員。ナベツネ(渡辺恒雄)
  は先輩。同期に堤清二、不破哲三など。
  国鉄細胞、住居細胞、職員細胞とかいう

L・C
    指導部(リーディング・コミッティー)
   アンジンは東大細胞のL・Cキャップ。

オルグ
 構成員獲得の為の勧誘。オーガナイズ。
 炭坑オルグで名を上げた・・・とか。

アジテーション
    演説。アジる。迫力がないと、ダメ。
 
フラクション
 組織から送り込まれたグループ。
 アンジンも他学部のスト決議大会に紛れ
 混み、率先して賛成発言し、誘導した。

宮顕
   宮本顕治。共産党委員長、書記長。
   アンジンが最も尊敬し、信頼した。
   
プロレタリアート
  賃金労働者階級、無産階級
  ブルジョアジーと対語

三月闘争    1945.3
  全官公七組合が全国規模の労働者闘争。

六・二六ゼネスト   1948.6.26
 授業料3倍値上げに対する不払い闘争から
 教育復興闘争へ、全国規模に拡大。
 ストライキには主要大学ほぼ全部の114校
 が参加する「圧倒的勝利」

全学連    1948~
  全日本学生自治会総連合。6.26ゼネスト
  の結集から組織され、以後学生運動が
  反体制運動の一角を形成する。

東宝争議   1948.4.8
  日映演東宝労組が砧撮影所で無期限スト
  「こないのは軍艦だけ」という弾圧。
 
五・二四ゼネスト   1949.5.24
  大学法反対スト。「暴力学生の出現」と。

キミ・ボク論争
 5・24ゼネストで、撤去を求める
 矢内原学長に対し、学生が平然と「キミ」
 の対等語を使い、新聞ネタとなった。

国鉄闘争    1949.夏
   10万人の首切り反対。労組の敗北。

九月革命   1949.9
  共産党が吉田内閣打倒、人民政府樹立を
  目指し、活動するも不発。

10円パンフ
  九月革命の宣伝武器。細胞員が各地売り
  歩き、アンジンは国電車内で売った。

コミンフォルム批判   1950.1.7
 共産党の国際組織(コミンテルン→コミン
 フォルム)が、日本共産党中央を批判した。

50年分裂
  コミンフォルム批判に、反対する所感を
  表した「所感派」と、国際批判を容れる
  「国際派」に別れた。

反帝闘争
 1950年、日本で初めてアメリカ占領当局
 反対の過激デモ。東京の学生5000人。
 主格アンジンは退学処分となる。
 マッカーサーは共産党弾圧へ。

徳田テーゼ
  テーゼは綱領。共産党書記長・徳田球一の
  50年方針。

六・六解体    1950.6.6
  マッカーサーが中央委員全員を公職追放
   すると、徳田らは引き継ぎもなしに
   その日から「地下にもぐって」しまった。

ポリシェビキ
  多数派の意味

反レッド・パージ闘争   1950.秋
  柔和な堤清二が、ハンマーで正門の
  錠前を叩き壊したので、アンジン驚く。
  各地エキサイトし、学生の大量逮捕。

南原総長
  東大総長。学生たちを時に理解、時に
  抑える人格者として尊敬されていた。

六全協
1955年7月の第六回全国協議会で、
 党中央が、50年分裂を引き起こした責任
 など、方針の誤りを認める声明を出した。
  六全協ショック、六全協ボケ。

スターリン批判
  1956年頃からスターリン個人崇拝、業績
  や害悪が論じられるようになる。

砂川闘争     1955-60
 米軍立川基地拡張に反対する、全学連と
 住民に機動隊突入で流血事件に。
 60年安保の第一歩。

現マル派    1958~
  現代マルクス主義。マルクス主義の中の
 新たな構造改革派。アンジンが傾倒。

・一事件    1958.6.1
  全学連主流派、反主流派の乱闘事件。

ブント  
  共産主義者同盟。全学連主流派が共産党
  から離れ、新左翼党派を結成。
 
トロツキスト
  共産党と対立する共産主義者を、党内で
  「ニセ左翼暴力集団」と批判する言葉。

教条主義
  コミンテルン型の保守的な公式路線。

修正主義
  マルクス主義に修正を加える、異端派。
   VS教条主義

大月書店
  本郷にある、マルクス主義関連出版社。
  アンジンはここに勤め、現マルの雑誌を
  発行するが、党本部から差し止め処分。

十一・二七闘争   1959.11.27
  「ニワトリ三羽に三百億」のベトナム倍賞
  に抗議する、国会突入闘争。
  「思慮なき全学連のハネ上がり」批判。

全自連   1960.7
  全学連の反主流派が全国自治会連絡会議
  を結成。日共系全学連。

五・一九    1960.5.19
  岸内閣、安保改正条約強行採決。
  反対闘争に火がつく。

ハガチー事件   1960.6.1
  アイゼンハワー大頭領訪日反対闘争。
  ハガチー報道官の車を、23万人が包囲し
  ハガチーはヘリコプターで脱出。「日本の
  恥さらし」と批判された。アンジン逮捕。
 
六・一五事件   1960.6.15
 デモは続き、国会前で機動隊と衝突、
 樺美智子さんが死亡。24日に国民葬。

民主主義的社会主義
 アンジンが到達した理想。
 「我々の構造改革は教条主義に対する闘い
  と同時に修正主義と改良主義ー社会民主
  主義とも有効に闘うマルクス主義であり
  我々こそがマルクス主義の正統である、
   という自負に燃えていた」    ん~。。f(^^;
 


カール・ハインリヒ・マルクス    「資本論」の人




解説によると、当時スターリンの蛮行は
隠されており、ソ連の政策主張が本来の
マルクス主義とは違っていること、など
青年層には分からなかったそうだ。


@ユートピアとしてのソヴィエト連邦。
@理想としての社会主義。




1961年、アンジンは共産党を離党する。





この私記で「社会主義者が行ってきた事実を
厳しく見つめる」    と、同時に

「社会主義なくしては攻勢で安定した
人間社会は維持しえない」  とする。



そして、

@「政治は悪さ加減の選択」     by 福沢諭吉
@「両眼主義という認識態度」   by 丸山眞男



これを心掛け、歩み続ける、と。カッコイー!!!



いやー、いっぱい勉強したなもー。(^^)