●間宮林蔵 @吉村 昭 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

間宮林蔵=樺太探検


こんな八文字熟語のような知識では
申し訳ない。ホントスゴい人でした。
いや、スゴすぎる人間だ。







当時、中国大陸と地続きと思われていた
樺太が、“島”であることを証明するん
だけど、、その過酷さ。尋常ではない。



胆力?根性?闘争心?


残虐極まりない夷狄の現地人に
殺されるのを覚悟の上で、自ら一人志願、
その苦労、苦難、ありえない。超人。



*地図等ネットより。



帰った時には、誰だか分からないほど
面変わりし、手は凍傷で変型していた。



ところで、国禁を犯して韃靼にまで渡った
林蔵は、アムール河域に残る
義経伝説を確かめたりしてる。





日本人の痕跡は確かにあるようだ。
してみると、ウチの近所の義経首洗い井戸
はガセなのか。えらいこっちゃ。



帰着後著した「東韃地方紀行」の挿絵。
デレンでの会談中。ひげ面が林蔵さん。



帰ってきた時、30歳くらいだけど、
その後もアリエナイ健脚を活かして
海防調査や、隠密として全国を歩き回る。



蝦夷、東北にも数回往復してるし、
伊豆七島や九州にも。アリエナイ。



隠密のときは、必ず日本橋の大丸呉服店
に行き、奥の部屋で俳諧師や乞食の衣装を
調達するんだって。
老中の指示で全ての変装用具が
揃っていたそうだ。やるなー江戸幕府。



その流れか、シーボルト事件の密告者扱い
になってしまったようだが、
結果として露見しただけで
密告じゃないんだ!誤解しないであげて!



特殊任務に明け暮れ、家庭もない林蔵だが
計測術の師である伊能忠敬との交情は
唯一、あったか~いものであった。



晩年の伊能忠敬は家庭的に不遇であった
ため、林蔵は忠敬宅に住み込んで
その死を看取り、葬式も出したという。



その後、伊能忠敬の遺志を遂げるべく、
再び蝦夷地をくまなく回り、海岸線だけで
なく、川を遡り内陸部まで調べあげる。



忠敬の死から3年後、1821年に完成した
「大日本沿海輿地全図」は、
伊能忠敬と間宮林蔵蝦夷図
魂の合作である。





茨城県の名もない農家に育った少年は、
超人的な気力体力で、日本国の海岸を
守った。歩いた。超人だ。
超高速間宮林蔵だ。






追記)
間宮林蔵は一日30里歩く。
足の裏が柔らかくなるのを防ぐため、
夏は裸足で歩く。
   (吉村昭   落日の宴より)