造仏造寺の停止。長岡京への遷都。
大仏なんて、くだらん無駄遣いだ!
桓武天皇ってずいぶんな革新派なのね。
でも長岡京遷都は失敗。
蝦夷出兵も失敗。
妻や女官などの不幸も相次ぐ。
これが有名な、早良親王の祟りだ~
そして平安京へ遷都したけど、
続く平城(へいぜい)天皇にも怨霊が。。
体を壊して嵯峨天皇に譲位したけど、
大好きな薬子と平城京に引っ越したら
元気になって太上政治を始めちゃう。
平安京 VS 平城京
「二所の朝廷」という異常事態!
からの~
これまた有名、 「薬子の変」
敗北者、平城太上天皇は剃髪し
愛する薬子を供養しつつ、
平城京に留まった。
だから平城天皇って呼ばれるんだね(°▽°)
この時、陰で動いて嵯峨天皇に
勝利をもたらしたのが藤原冬嗣だ。
「藤原冬嗣」これ大事!
権力を誇示せず、人の話をよく聞く、
穏やかで新しいタイプの政治家である。
後世、「温裕・弘雅」と評される。
緩やかに、しかも着実に、律令制、
土地制度、税収制の改革を進めていった。
この時期を、不完全ながらも
中世の始まりとして注目する人も多い。
冬嗣以降、天皇は政治から離れ
“象徴”として存在するようになる。
「権力」ではなく「権威」をもつ。
「帝は雑事に煩わされず、文雅の王者
として新たな御世をお拓きください。」
「よきにはからえ!」 (^o^)v
政治嫌いの嵯峨天皇は嬉々として
漢詩、書芸に勤しむ。
凌雲集・文華秀麗集ができ、
書では三筆の一人に数えられる。
空海とも仲良しだったのねー
さらに「賜姓源氏」が始まる。
(子作りにも勤しんだので皇子だらけ)
天皇と“源を同じく”する多くの親王を
臣下に降ろして国費節約。
財政のバランスをとったのだ。
道鏡後、光仁・桓武・平城。
流血と怨念の時代はここに終わりを告げ
以後、400年の平安が訪れる。
そして道長に続く藤原北家の繁栄も、
ここから始まったのだ。
とにかく永井路子本は面白い!
装丁も素敵。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150211/01/yume-nomata-yume/7a/e2/j/o0720096013214524610.jpg?caw=800)
「一県千家花ならずはなし」とある。
穏やかな世に花が溢れる、という
冬嗣の詩だ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150211/01/yume-nomata-yume/f7/a6/j/o0720096013214524632.jpg?caw=800)