阿闍梨【番外編】一隅を照らす

❖今東光大僧正の戸津説法②



◇毒舌こそ、わが仏心"慈悲の心"に形式は無用


◆地獄へ届いた老婆の念仏


昔、こいいう話がありました。


ある信心深い婆さんがいて、何でも「なむあみたぶ、なむあみだぶ」、年をとっておならが出ても「なむあみだぶ」と言うとった。


そのおばんが、いよいよ死によった。あるだけ信心深かったから、極楽往生間違いなしだと思って行った。そしたら、あろうことかあるまいことか、地獄へ連れてかれちゃった。婆さん、えらい剣幕で閻魔さんに噛みついた、、、、。


「わては一所懸命、朝から晩までお念仏を唱えてきて、それでこの始末や、極楽へ行くつもりやったのに、何で地獄へ連れて来られなならんのや。あほらしうもない」


そうしたら、閻魔がパラパラと帳面をみて「おのれの唱えていた『南無阿弥陀仏』なんていうのは何にもならん。あれは偽の念仏や。極楽へなんかとうてい行かれん。地獄行きがええとこや、、、、」と言いながら帳面のページをめくっていって、「あっ、ちょっと待てよ、ちょっと待て。一つだけあるな。これが一つあるから、この功徳でおのれは地獄じゃなしに、極楽へ送ってやろう」「そうですか。へえ、おおきに。あれだけ何十年も『なんまいだあ、なんまいだあ』と言って、箸がこけても『なんまいだあ』と唱えて暮らしてきたのに、たった一つだけとはね。どのときですねん?」と婆さんが質問すると、閻魔が「おのれの家の前に雷が落ちたとき、おのれ、心から『なんまいだ!』と言うたな。それが届いとるわ」と答えたという話がありますのや。


信心っていうのは、そういうものなんですよ。


今日はわたしの仲間がいろいろ来てて、「今東光は何をバカなことを言うとるんや」と思っているでしょうけど、帰りに雷がゴロゴロ鳴って、ドカンと落ちたら、ここにおられる大僧正の木崎先生かて、思わず「なんまいだ!」と言うにきまってる。そういうのがほんまの信心なんです。


そういうわけで、今日わたしは法華経のお説法をすることになっているわけですけど、ほんまに法華経の話が聞きたい、ほんまに仏教のことが聞きたいという人は、わたしに聞きなはれ。別にお布施くれとは言いませんし、そりゃ、明日の朝までかかってもお話します。


しかし、こうやって皆さんとお話をするときは、仏法の味わいというか、法味というか、その話の全体が一つの仏法につながっていればよろしい。そう思って、今日わたしはずっとお話してる。あんまりむずかしいことは言いません。



◆わが"テンプラ"東大生時代


若いころ、わたしは志那文学をやって、ずいぶん漢文を勉強しました。亡くなった芥川龍之介さんという人がいまして、わたしが東京の本郷あたりでふらふらしているのを見て、あれでも惜しいと思ったんでしょうか、少し志那文学の講義でも聞きなさいと言ってくれたのが動機になって、どうせ時間つぶしだ、暇つぶしだからと思って講義を聞きに行ったんです。これでひじょうに興味を持ちまして、漢文に接するようになりました。


ついでのことですけど、わたしが通ったのは東大の講義てます。といって、わたしは東大の学生だったわけではない。中学もろくろく出ていない人間が、とうして東京帝国大学に入れますか。上京して本郷あたりでごろついているうちに、仲よくなったやつらの中に川端康成とかだれとか、秀才どもがいて、東大に行っとった。だから、連中と一緒に赤門くぐってくわけです。つまり、偽学生ですね。それで漢文に親しんで、後になってお経を読むのにずいぶん楽だったね。


仏教というのはインドから出たものですが、志那を経て日本に伝わってきたときには、漢文に翻訳されてきた。もともとはサンスクリットというインドの言葉が、漢字に訳されてきた。これがとてもむずかしくてダメ。なかなか漢字が読めません。


いま東大の学生で、わたしの文章もよう読まんガキがいっぱいおる。あれでも東大かというほど読めないんです。まして漢文なんか、とうてい歯が立たない。ともかく、仏教の漢文はむずかしい。


帰りに、こちらの座敷をご覧になってみてください。天台座主の字があります。「転法輪所」と書いてある。「法を転ずる」、、、つまり、ここは説教する場所だという意味の書がお座敷に掛かっているんですが、その「ホウ」という字が「法」というんじゃなくて、えらいむずかしい。「☆」と書く。「法」、この字を略したものなんです。


こういうふうに、仏教の字というのは、ほんまに書くと頭が痛くなるような字が、いっぱいある。ですから、仏教の本当の筋道を勉強する前に、漢字一字一字の説明をしなけりゃならんことになったりする。そのうち、本末転倒して、字の研究そのものが目的みたいに思ったりもするんです。世の中には、こういうことって多いんだな。


たとえば、われわれはすぐ天台、天台と簡単に口にします。ですけど、あなた方から「天台宗って何だんね?」と訊かれたら、天台にはお偉いお方がぎょうさんおるだろうけれども、一言で言うてみいとなったら、なかなか説明できまへんで。


いまのうちのお座主は、たいへんむずかしいご本を出したりする教学研究所の親方さんですから、わたしたちのボスですわ。どんな組織にもボスはおるもんで、うちにもちゃんとおる。わたしもこういう組織の中に入れば、やっぱりボスの言うこと聞かなならん。「今度の戸津説法は、お前やれ」と言われたら、「へい、やります」と言わなきゃならない。やらんなんだら、どつかれるんやから、そやから、わたしは今日、ここに来ている。


それで、天台を一言で説明してみい、ということになったら、ボスにだってむずかしい。「五時八教だっか」、、、、まず、こうくる。「それじゃあ、五時八教って何だんね?ゴジゴジしているうちに発狂したんですか?」というようなもんだ。えらい違いますがな。第一、発音が違うし、字も違う。


五時というのは、お釈迦さんの説法を時代別に五つの時に区切る。それからまた、八教というのはその教えのお話の内容を八つに分けて、理解した。そういうことなんですが、だからといって、そんなことは一般の人に何の関係もないら、信心する人が、みんな学者みたいにならないかんなんて、そんなバカなことはないんですから、


わたしの話なんて、単純なんです。「今日、今東光の戸津説法があったそうですけど、どんな内容でした?」「あるは漫才みたいなもんですわ」


仏教漫才だと言ったら、その一言でわかりますやないか。そういうのがおもろい人は、それだけでいいんです。そうじゃなくて本当に仏教をやらたいという人は、わたしよりもっと偉い人がおりますから、山へ行ってじっくり取り組んで、五時八教とは何ぞやというようなことで、やればよろしい。


つづく、

毒舌仏教入門 苦楽は一つなり 今東光


本年度、戸津説法師 青蓮院門跡 東伏見慈晃門主 筆蹟