阿闍梨【外伝】一隅を照らす

❖名刹・古刹(めいさつ・こさつ)

引用 天台宗公式サイト 法話集


立石寺 山形県

 

名刹・古刹(めいさつ・こさつ)


 名刹・古刹というと、有名な由緒あるお寺や歴史があり古いお寺をいいますが、それではなぜ「刹」の字がお寺の事をさすのでしょうか?


 刹には二つの意味があります。一つめはサンスクリット語のksetraの音写で、刹多羅(せつたら)や差多羅(さたら)と表記され、土・地・田・国・国土などと意訳されます。また、土地・領地・田畑・国土などを意味し、転じて神聖な土地・聖地や仏が現れて衆生を教化する世界つまり仏国土をも意味する語となりました。


 二つめの意味は、サンスクリット語のyastiの音写で、柱・竿などと意訳されます。古代インドや西域ではお寺の堂塔の前に柱や竿を建て、先端に宝珠・火焔の目印をつけてお寺の標識としたり、僧侶が修行の末、一法を得た時、柱の先端に旗を付けてお寺の周辺や遠方の人に知らせたそうで、そうしたことからこの語が、やがて寺院を意味するようになったとういうことです。


掲載日:2011年06月20日

https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=97


立石寺奥の院

❖宝珠山立石寺 山形県山形市山寺4456-1

 

山号 宝珠山

院号 阿所川院

宗派 天台宗

寺格 関東祈祷所

本尊 薬師如来

創建年 伝・貞観2年(860年)

開山 伝・円仁

正式名 寶珠山阿所川院立石寺

別称 山寺


当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。


当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。元禄二年(1689)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しました。


現在は約百町歩(33万坪)の境内を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残され、三つの不滅(法灯・香・写経行)が今尚護られています。

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素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-


「むかしは目立たないように生きる、そういう考え方でしたね。いまは目立つように生きる、そうなってますわね」




『無名人名語録』 永 六輔


 巷(ちまた)で生きる無名の人々の言葉には、「なるほど、まさにそう」と思わせてくれるものがあります。


 それは、あまり表に出さず、心の奥底でつぶやかれるたぐいの言葉であるからです。

 掲げた言葉などは、まさにそうだと思います。


 この言葉自体、採り上げられたのは随分前のことでしたが、今の時代に発せられたかのような言葉です。いつの時代でも言われる言葉に「近頃の若者たちは、昔に比べて云々…」というのがあります。


 この掲げた言葉も同様です。しかし、このインターネット時代になると、とみに「目立つ」ことが人気を得ているようです。


 元来、周囲に気遣いし和を尊ぶ性格が日本人にはありました。生き抜くためにはまず、自己を主張しなければならないとする西欧諸国と違っています。それだけに、日本人は周りと同じであることをまず第一とする「同調圧力」に弱いといわれるのでしょう。

 「目立たないように生きる」とは、仕事の上でも日常生活の上でも、周りと協調して生きることです。


 その実直な姿が目に浮かびます。それが価値として認められていたわけです。今は、そんな生き方はあまり認められないように思えます。


 「人に認められたい」「特別な存在として見られたい」など、他人の視線に捉えられたいという思いがよくわかるのが、今のインターネットの世界でしょう。


 ユーチューブが俄然人気があるのも頷けます。人気が出れば、お金も稼げます。小学生の将来なりたい職業としてユーチューバーが上位に上がっているのも頷けます。目立たなく、そっと静かに生きていくなどという人生観は、もはや支持されなくなっているのでしょうか。ちょっと寂しい気がします。


天台ジャーナル209号 2020.8.1