阿闍梨【外伝】一隅を照らす

❖お釈迦様の平和主義

引用 天台宗公式サイト 法話集




 

お釈迦様の平和主義


(問)武力で問題は解決しますか?


(答)昔、お釈迦様のおられたカピラ城の隣にコーサラ国という強大な国がありました。そのパセーナディ王は、釈尊を尊崇し、深く仏教に帰依していたため、妃を釈迦国から迎えたいと願い、使者を釈迦国に派遣しました。


 しかし、この使者の口上が「貴族の娘を寄こせ。断るなら戦争だ」というものでしたので、釈迦国の人々は怒り、貴族でない女性を母とする美女をパセーナディ王のもとに嫁入りさせました。


 やがてコーサラ国に瑠璃(ヴィドゥーダバ)太子が生まれました。瑠璃太子は、少年のころ、釈迦国に留学しましたが、生母が貴族でないためにカースト制度によって徹底的に差別されます。瑠璃太子は王位に就くと、その屈辱を忘れず、軍を率いて釈迦国に進撃を始めました。そのことを耳にされた釈尊は、コーサラ国から釈迦国につづく街道に行かれ、一本の枯れ樹の下で坐禅をされました。


 街道を進軍して来た瑠璃王は、


 「世尊よ、ほかに青々と繁った樹もあるのに、なぜ枯れ樹の下に坐っておられるのですか?」と尋ねました。


 「王よ、親族の陰は涼しいものです」というのがその答えでした。

釈尊は、その枯れ樹が釈迦族のシンボル的な樹であることから、釈迦国への愛情を表明されたのです。


 それを聞いた瑠璃王は「遠征の時に沙門に会ったら兵を返せ」という言い伝えを思い出し、軍を引き返しました。しかし瑠璃王の怒りは、それでもおさまらず、三度軍隊を派遣します。四度目、コーサラ国王が軍を進めたとき、釈尊の姿は見られませんでした。瑠璃王軍は釈迦国に攻め込み、ついに釈迦国を滅ぼしてしまいました。

 釈尊は、釈迦国の滅亡を救うために坐禅を三度されましたが、武器を取って争うことはされませんでした。


 ここに釈尊の「武力で争うべきではない」という平和主義をみることができます。また、法句経(ほっくきょう)で釈尊は「まこと、怨みごころは、いかなるすべてをもつとも怨みをいだくその日まで、この地上にはやみがたし。ただ怨みなきによりてこそ、この怨みはやむ。これ易(かわ)りなき真理なり」と言っています。味わうべき言葉です。


掲載日:2008年07月23日

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