阿闍梨【外伝】一隅を照らす
❖有頂天(うちょうてん)
引用 天台宗公式サイト 法話集
有頂天(うちょうてん)
「人が喜びや得意の絶頂にいて我を忘れている状態」や「物事に熱中し他を顧みない状態」にあることを「有頂天」と表現しますが、この「有頂天」という言葉は元々、仏教の世界観が語源です。
まず、仏典における「天」はサンスクリット語のdeva(本来輝くもの)の訳で神を意味すると同時に神が住む場所(天界)をも意味します。
古代インドの僧侶、世親(せしん・ヴァスバンドゥ)が著した『倶舎論(くしゃろん)』によると、「有頂天とは三界(さんがい)の最も上に位置する天(処)」のことを指します。三界とはわれわれ衆生が生まれて輪廻する三つの迷いの世界のことで、生きものが住む世界全体のことを指し、下から「欲界(よっかい)」「色界(しきかい)」「無色界(むしきかい)」に分かれています。
一番下の「欲界」は食欲・淫欲・睡眠欲の本能的な欲望に支配される生きものの世界で、下から地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道(ろくどう)」で構成され、さらに天は六つの世界に分かれ、下から四大王衆天(しだいおうしゅてん)・三十三天(さんじゅうさんてん)・夜摩天(やまてん)・覩史多天(としたてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天(たけじざいてん)と呼び「六欲天(ろくよくてん)」といいます。
次の「色界」は「欲界」の上にあり、欲望は超越したが、物質的条件(五蘊(ごうん)のうちの色蘊(しきうん))にとらわれた生きものの住む世界で、下から初禅(しょぜん)、第二禅(だいにぜん)、第三禅(だいさんぜん)、第四禅(だいしぜん)の四つの世界で構成され、初禅には梵衆天(ぼんしゅてん)・梵輔天(ぼんほてん)・大梵天(だいぼんてん)、第二禅には少光天(しょうこうてん)・無量光天(むりょうこうてん)・極光浄天(ごくこうじょうてん)、第三禅には少浄天(しょうじょうてん)・無量浄天(むりょうじょうてん)・遍浄天(へんじょうてん)、第四禅には無雲天(むうんてん)・福生天(ふくしょうてん)・広果天(こうかてん)・無煩天(むぼんてん)・無熱天(むねつてん)・善現天(ぜんげんてん)・善見天(ぜんけんてん)・色究竟天(しきくきょうてん)があり、これらを「色界の十七天」といいます。
最後に最も上の「無色界」は欲望も物質的条件も超越し、五蘊(ごうん)のうちの色蘊(しきうん)を除く受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の四つの構成要素からなる精神的条件のみを有する生きものが住む世界で、下から空無辺天(くうむへんてん)(処)、識無辺天(しきむへんてん)(処)、無所有天(むしょうてん)(処)、非想非非想天(ひそうひひそうてん)(処)があり、総称して「無色界の四天」といいます。
これら三界・二十七天の最高の位置にある、非想非非想天(処)を全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天とも呼び、また、ここから有頂天に登りつめる事、つまり絶頂を極めるの意味から転じて、喜びで夢中になることを有頂天になると表現するようになったのです。
掲載日:2011年09月01日
https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=100
有頂天
うちょうてん
天のなかの最高の天の意。
<有頂>(s: bhava-agra)は有う(bhava、 存在)の頂き(agra)を意味し、三界(欲界・色界・無色界)のうちの最高の場所(無色界の最高の場所)である<非想非非想処>(非想非非想天)をさす。
またときに色界の最高の場所である色究竟天しきくきょうてんをさす。
<天>は天界を意味すると同時に、そこに住む者をも意味する。
有頂天に登りつめる、絶頂をきわめるの意から転じて、喜びで夢中になることを<有頂天になる>という。
(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
有頂天から始まる地獄(久米の仙人)
奈良県の久米寺の開祖といわれる久米仙人には、
『徒然草』や『今昔物語集』に、このような話が伝えられています。
ちょうど仏教が伝来した欽明天皇の時代に生まれた、久米という仙人がいました。
久米仙人は、大変な修行によって、雲で自在に大空を飛び回れる神通力を身につけます。
飛行機のない時代に大空を飛び回れたのですから、とても愉快であったに違いありません。
ある日の昼下がり、得意満面の久米仙人が、雲間から下界を見下ろしました。
すると広い大和平野に、一条の川が静かに流れています。
当時は久米川といわれていた、現在の曽我川です。
その川に天女のように美しい娘が、誰に見られる心配もない気楽さから、
思い切り腰巻きをまくり上げて洗濯をしていました。
それを見てしまった久米仙人は、相当修行をしていたにもかかわらず、
つい妄念が湧き上がります。
それと同時に、たちまち神通力を失って雲間から墜落し、
神通力を失って二度と空を翔ぶことができなくなってしまいました。
仙人はそこに寺を造り仏道修行に打ち込んだといわれます。
これが久米寺の伝説です。
雲は小さい水滴でできているので、いくら仙人でも、
雲に乗って自在に空が翔べるはずがありません。
これは慢心を表したものだと考えられます。
慢心ほど危険なものはありません。
「オレはもう仙人の悟りを開いているのだ」と自惚れて、
「お前らはなんだ」と、他を見下げる心です。
私は金持ちだとか、実績があるとか、博士だとか、学者だとか、社長だとか、美人だとか、
他人を見下し馬鹿にします。
敗戦前の日本もそうでした。
日清日露と連勝し、戦争で負けたことがなく、
神国日本は世界の盟主と自惚れて、外国を併呑してその主になろうとしました。
その結果は惨敗で、アメリカに占領されて地獄に墜落してしまいました。
人は山のてっぺんに登ることはできるが、そこに永く住むことはできません。
地獄は有頂天から始まることを決して忘れてはならないのです。
引用 日本仏教学院
https://true-buddhism.com/teachings/uchoten/
https://www.city.kashihara.nara.jp/soshiki/1021/1/2/3/3652.html