阿闍梨【外伝】一隅を照らす

❖琵琶の音

引用 天台宗公式サイト 法話集



 

琵琶の音


 天台宗の四つの伝承法流の一つ玄清法流(げんせいほうりゅう)では琵琶を奏でながらお経を唱え、三宝大荒神や諸仏を祈ります。


 私たち僧侶が琵琶を弾く理由は「法華経」に由来します。「方便品」に、琵琶や楽器で妙音を奏で仏を供養するならば必ず仏道を成就することができる、と説かれています。つまり「妙音成仏」を目指す修行のよすがとして琵琶を弾奏するのです。


 琵琶の音色はその時々に変わります。


 私たちが弾く四弦五柱の琵琶は、桑や花梨の胴に桐の腹板を嵌めこみ太さの異なる三種類の絹糸を張った古い楽器です。お天気や気温・湿度にとても敏感で、良く響くハリのある音が発つ時もあれば、湿気を含みくぐもった音しか出ないこともあります。また、弾き手の心の状態によって音色は変わります。上手下手を超えたありのままが音となり旋律となります。自らの心を観じ、整えることが必要です。琵琶の音は琵琶と弾き手が一体となってはじめて生まれます。妙音に近づくことは容易ならざる仏道修行です。


 玄清法流の開祖を玄清法印といいます。天平神護二年(七六六)、現在の福岡県太宰府市近郊に生まれた玄清は幼くして仏門に入り、十七歳で眼病を患い失明します。後の盲僧のため一派を開こうと決心し盲僧の祖インドの阿那律尊者にならい琵琶を弾き始めます。二十歳の時一大発心し、琵琶を携えて山に籠り二十一日間厳しい修行を行います。満願の朝「心願を成就したければ速やかに比叡山に登って一人の聖者にまみえ、その方を至心にお助けせよ」というお告げを授かります。玄清は早速登叡し導かれるように伝教大師最澄に出会います。当時伝教大師は根本中堂の前身である一乗止観院を建立中でした。しかし大蛇が出て御堂の建設が阻害されていたのです。地神の仕業だと察した玄清は琵琶を弾奏しながら地神陀羅尼経を唱え地神供養を行います。地神は大いに歓喜し、たちまち大蛇の難は消除したと伝えられています。玄清の琵琶を用いた祈祷には感応道交の力があったのです。


 妙音成仏と感応道交、これが琵琶弾奏のテーマです。しかしそれのみならず、祈りの場に集う人々の心に琵琶の音が響くことも私たちは古くからとても大切にしてきました。私たちの奏でる琵琶の音が御仏はもとより皆様の心に届き、共鳴共振することを願って現在も修練と試行錯誤を重ねています。



(文・玄清法流 華王院 坂本清昭)


掲載日:2015年09月01日

https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=162




橘玄清法印 


楽器としての「筑前琵琶のはじまり」は、明 治時代の初代 橘旭翁の考案によるものです が、起源として遡ると、桓武天皇の時代に九 州筑前の国、円満山四王寺坂本院に橘玄清 (天平神護2年(766年)生まれ)という天台宗 の僧がいたことに始まります。


橘玄清は、貴種名族の藤橘源平の一つである 橘氏一族の出自であり、系譜によれば、嵯峨 天皇の皇后である橘嘉智子 (檀林皇后)と同 族です。この「橘」姓の起こりについては和 銅元年(708年)、県犬養三千代に元明天皇 から「橘は果物の王なり。その枝は霜雪を恐 れずして繁茂し、葉は寒暑を凌ぎて凋まず。 しかも光は珠玉と争い色は金銀と交わりて 益々美し。故に橘を氏とせよ。」と賜るのが 最初となります。


http://www.biwatachibana.or.jp/history/his02_1.html




玄清法流琵琶法楽


桓武天皇の時代(782年~805年)筑前国三笠郡四王寺山北隅の渓谷に橘定玄と称する


一沙門がありました。


延暦4年、比叡山延暦寺創建の際、毒蛇に妨げられ困っていたところ、上洛して琵琶を弾じ


「地神陀羅尼経」を読誦して、この毒蛇を追い払います。その法力を認められ、「玄清法印」の


名を賜り、帰国後成就院を建立して、筑前盲僧の本山とし、琵琶を弾ずることを教えます。


これが筑前琵琶の源流となっています。


玄清法印の琵琶を用いた法儀は盲僧たちに受継がれ、現在は天台宗玄清法流の僧侶によって


継承保持されています。福岡市南区の成就院で行われる琵琶法楽は昭和39年に福岡県無形文化財に指定されました。


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