阿闍梨【外伝】一隅を照らす

❖恵心僧都源信

❉追善供養


 

追善供養


 「悪いことをした人は死ねば地獄に堕ちるんだよ。」


人は亡くなると六道輪廻するのでしょうか?


平安時代の天台僧、恵心僧都源信さまは『往生要集』で地獄や餓鬼、畜生に生まれないように念仏することの大切さをお説きになりました。しかし、私は昨今の世相の中で、現代人は死んでも地獄に行くとは思っていないのではないかと思うようになっていました。そんな時の話です。


 おじいさんを亡くしたお家にお参りに行きました。1週目(初七日)の法要からご夫人、子どもさん、お孫さんが座っていっしょにお経をあげていました。4週目の法要が終わり

「来週は5週目ですね。昔から人が亡くなると閻魔大王さまに生前の行いの良し悪しを裁判で裁かれ、悪いことをしていたら地獄に堕とされるんだそうです。おじいさんはいい人でしたよ。極楽へ行ってほしいですね。そういう気持ちで念仏いたしましょう」

と言って帰りました。その翌週のことです。私が行くといつもちょこんと座っている小学校2年生の男の子がいません。


「どうしたの?」


と聞くと、お母さんがにっこり笑いながら、フスマの後ろを指さすのです。見るとその子が泣いています。


「今日は裁判で、もしおじいちゃんが地獄へでも行くことになったら大変だ」

と心配して泣いていたというわけです。


「僕はこんなにおじいちゃんのことが好きです。僕のことをかわいがってくれていたおじいちゃん、極楽にいってね、と願っていっしょに念仏しましょう」

といって法要がはじまりました。私もあの子も家族もみんな一生懸命です。終わって母親が言うには


「この子は僕がいい加減なことをしていておじいちゃんが地獄に堕ちたらかわいそうだと思って、この1週間、今までしたこともないお手伝いも一生懸命し、勉強も一生懸命してきたんですよ。」


「そうでしたか。だったらおじいちゃんは極楽行き間違いなしですね。でも怠けてたらおじいちゃんは極楽でがっかりするだろうから、これからも頑張ってね」


男の子の顔は晴れやかになりました。これが本当の追善供養だと思いました。



(文・吉田 実盛)


掲載日:2018年08月01日

https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=197


❖恵心講

横川元三大師堂にて恵心講が行われました。源氏物語でも出てくる横川の僧都のモデルとなったのが、恵心僧都源信であり、天台浄土思想を確立された方です。六道講式の法会によって、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道の苦しみを逃れ、来世の極楽往生を願いました。


引用 天台宗公式サイト 六月十日



❖恵心僧都源信

恵心堂(比叡山・横川)
恵心廟(比叡山・横川)

『往生要集』写本(延暦寺蔵)

 

誕生の年時


天慶五年(942)大和国葛城下郡當麻郷(奈良県香芝市)の當麻寺(たいまでら)近くの生まれ。父は卜部正親(うらべまさちか)、母は清原氏で極めて道心深く、母および三人の妹はともに尼となられています。


夢告により(十代半ば頃か)比叡山の横川(よかわ)に登り、慈恵(じえ)大師良源(りょうげん)大僧正の弟子となり、三十二歳の時、慈恵大師始行の「広学豎義(こうがくりゅうぎ)(天台僧の最終試験)を受けて「論義決択(ろんぎけっちゃく)世に絶倫(ぜつりん)と称す」と称讃されました。


『往生要集』の撰述と遣宋


寛和元年(985)四十四歳の時、叡山浄土教大成の書『往生要集(おうじょうようしゅう)』三巻を完成。その序文の冒頭で「夫れ往生極楽の教えと実践は濁世末代(じょくせまつだい)の目となり足となる重要なものである」と述べ、浄土念仏に関する百六十余部九百五十余文にも及ぶ経論の要文を典拠として引用しつつ、自らの念仏往生の思想とその実践方法を見事にまとめ上げました。


本書では、まずわれわれが生まれ変り死に変りする地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・阿修羅(あしゅら)・人間(にんげん)・天上(てんじょう)という、苦しみの穢(けが)れた六つの世界を厭(いと)い離れ、阿弥陀仏の苦しみのない極楽浄土(ごくらくじょうど)の世界をよろこび願い求めるべきことを示した後、正(まさ)しく念仏を修する方法を【一】礼拝(らいはい)【二】讃歎(さんだん)【三】作願(さがん)【四】観察(かんざつ)【五】廻向(えこう)の五念門(ごねんもん)として説かれました。


即ち、身にて一心に阿弥陀仏を礼拝し、口で弥陀仏の徳を讃歎し、意にてみほとけのこころ菩提心を発し、阿弥陀仏の相好(そうごう)(おすがた)を観察していく方法等が示されています。しかし乍(なが)ら「もし仏のおすがたを思い起こす(観察)ことができなければ、仏の救いを信じて身命を仏にゆだねる(帰命)という想(おもい)いにより、あるいは仏が救い取ってくださる(引摂(いんじょう))という想いにより、あるいは極楽の世界に生まれることができる(往生)という想いによって、心から一心に南無阿弥陀仏と唱えなさい」と述べ、仏のおすがたを思い浮べること(観念)ができないものは、心から仏のみ名を唱える称名(しょうみょう)念仏でも往生できる、と説いています。また「往生する為の行いは念仏を根本となす」としながらも、それぞれの願いに応じて行うあらゆる修行もまた極楽往生を実現する為の道(諸行往生(しょぎょうおうじょう))であると述べています。


なお、この『往生要集』を大宋国に遣宋(永延元年987)したところ、天台山国清寺では往生極楽の因縁を慶び「南無日本教主源信大師」と恭敬礼拝したと伝えています。


念仏結社と迎講


『往生要集』に示された浄土念仏の思想を実践する念仏結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」が寛和二年(986)結成され、花山(かざん)法皇など二十五名の結縁衆(けちえんしゅう)が組織されました。源信撰『二十五三昧式』によれば、毎月十五日に阿弥陀経読誦の後、六道の衆生受苦の文を読み弥陀の名号を称えるなど極楽世界に生まれることを期しました。この二十五三昧式は現在も恵心講「六道講式(ろくどうこうしき)」として恵心僧都ご命日の六月十日に修されています。


また寛弘二年(1005)ひたすら浄土の業を修さんが為に横川に華台院(けだいいん)を創建し、僧侶だけでなく縁ある在家の人々と共に「迎講(むかえこう)」を始修されました。迎講とは「来迎行者(らいごうぎょうじゃ)の講」の略称であり、命終にあたって阿弥陀如来が極楽浄土の世界へ導くために、観音・勢至など二十五の菩薩たちと共に、臨終を迎える往生者をお迎えに来られることを顕(あら)わしています。二十五菩薩の行道面〈練供養(ねりくよう)〉の起源は、この華台院に始まるのです。


『一乗要決(いちじょうようけつ)』の撰述と霊山釈迦講


伝教大師以来の一三権実(いちさんごんじつ)論争(一乗と三乗、いずれが真実か方便か)に決着をつけ、法華一乗(ほっけいちじょう)の思想を闡明(せんめい)にされました。


本書の末尾には「私はいま、仏となる一乗の教えを深く信じ理解しています。願うところは、阿弥陀如来(無量寿仏)のみ前に生まれ、法華経方便品(ほっけきょうほうべんぽん)に示されているように仏の知見を得たいと思います」と示し、「法華」と「念仏」の教えや信仰は何の矛盾もなく受け入れられるべきものと述べています。


『一乗要決』撰述の翌年、みずから横川に創建した法華信仰の根本道場「霊山院(りょうぜんいん)」において、「霊山釈迦講(しゃかこう)」を始め、毎月晦日(みそか)の法華経講義と、結番者(けちばんしゃ)による法華経読誦や釈迦如来への毎日の恭敬や供養等を勤めるべきこととし ました。


「朝法華、夕念仏」の伝統と臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)


恵心僧都は『往生要集』を著し、また念仏結社や迎講(むかえこう)を結成して叡山浄土教を大成し、のちに法然(ほうねん)上人、親鸞(しんらん)聖人、真盛(しんせい)上人など浄土念仏の祖師方を比叡から輩出する礎(いしずえ)を築かれました。


また一方、『一乗要決』を著して霊山釈迦講を始修するなど法華信仰を宣布され、「朝法華夕念仏(あさほっけゆうねんぶつ)」という天台仏教の伝統を育くまれました。


寛仁元年(1017)六月十日、二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)の臨終作法により仏手の縷(いと)を自らの手に執り、弥陀の相好「面善円浄(めんぜんえんじょう)」の文を誦えつつ入滅されました。


なお『往生要集』の「臨終行儀」には、一心に阿弥陀仏を称念する「十念」をすすめているが、特に「臨終の一念は百年の業(ごう)(修行)に勝る」と述べており、いのち終らんとする最後の瞬間の一念の大切さを説いています。


六道講式(横川・元三大師堂にて)
練供養(京都・即成院)
山越阿弥陀図(延暦寺・華蔵院蔵)

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