阿闍梨【外伝】一隅を照らす

❖ほとけさまの(心の)サイン ―お釈迦さま― 

引用 天台宗公式サイト 法話集




 

ほとけさまの(心の)サイン ―お釈迦さま― 


お釈迦(しゃか)さまは 釈迦如来(にょらい)とも呼ばれます。実はこの○○如来と名のつく仏さまは、 すでに完全なお悟(さと)りを開かれた方なのです。ですから、如来さまは一切の物事(ものごと)に対するとらわれの心がありませんので、そのお姿も装飾品(そうしょくひん)などは持たず、簡単な衣(ころも)を一枚身につけておられるだけで、あとはご自分のお心を伝えるために必要なもの以外は一切何もお持ちにならないのです。


 そこで、お釈迦さまですが、普通は絵のように、左右の手の指をひろげられ、右手を胸の辺(あた)りにあげ、左手を腰の辺りにたらしていらっしゃいます。


 この右手の形(印相〔いんそう〕といいます)を「施無畏(せむい)の印(いん)」といい、わかりやすく言えば、「何もこわがることはありませんよ、心配しないでね」とおっしゃっておられるのです。そして、たらした左手は「与願(よがん)の印(いん)」といって、「話してごらん、願いごとは聞いてあげますよ」ということをサインであらわしておられるのです。


 なお、お釈迦さまにはお生まれになった時の誕生仏(たんじょうぶつ)から、お亡くなりになられた時の涅槃像(ねはんぞう)まで、実にさまざまなお姿が あります。


 ところで、この施無畏と与願の印の大切なことは、これらの印が、自分だけが救われればそれでいいという狭(せま)い考え方ではなく、もっと幅(はば)広く、悩(なや)んでいる人々を救ってあげたいという願いをあらわしているのです。言いかえれば、自分の利益(自利〔じり〕)よりも他人のことを中心にする考え方(利他〔りた〕)で、そこには仏教の説く慈悲(じひ)の心があります。


 かつて、伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄上人(さいちょうしょうにん)が「己(おのれ)を忘れて他を利(り)するは、慈悲の極(きわ)みである」とおっしゃられたのは、正にこのことだったわけです。


掲載日:2005年04月20日

https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=18



❖傳教大師御命日『長講会』

 

6月4日は伝教大師最澄様のご祥当日となります。

御廟のある浄土院において、長講会が行われました。天台座主猊下、探題大僧正が精義者となり、出題された論題に対して、講師、問者による問答往復の後、精義(おしらべ)が行われました。

法要の前には、伝教大師が初めて日本に伝えたとされるお茶が献ぜられました。

本年の戸津説法説法師の発表があり、京都教区青蓮院門跡東伏見慈晃師が選ばれました。


引用 天台宗公式サイト

❖戸津説法師に青蓮院門跡東伏見慈晃師



比叡山延暦寺(大津市)は4日、天台宗のトップ・天台座主への登竜門とされる戸津(とづ)説法師に、青蓮院門跡東伏見慈晃師を指名した。戸津説法は天台宗の重要行事の一つで、比叡山麓にある東南寺(大津市)で毎年8月21日から5日間、法華経の教えを説く。戸津説法師は、天台宗の開祖・最澄の命日(6月4日)に指名される。


東伏見門主は、上皇陛下の従兄弟にあたります。


青蓮院門跡


天台宗の祖、最澄(伝教大師)が延暦寺(大津市)に建てた僧侶の住まいを起源とする青蓮院は、皇室や摂関家の出身者で門主が受け継がれる門跡寺院。門跡寺院は明治政府の神仏分離令に伴う廃仏毀釈(きしゃく)により、門主の親王は全て門主を辞めさせられ、僧籍も剥奪された。この結果、皇室と仏教は分離され、今では多くが形だけの「門跡」になっている。そうした中、青蓮院は天皇家とのつながりが維持されている数少ない寺院のひとつ。


起源は伝教大師最澄による「青蓮坊」


日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊でした。


門跡寺としての青蓮院の始まり


平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりであり、行玄が第一世の門主であります。

その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。


青蓮院の歴代門主


第三代門主慈圓青蓮院が最も隆盛を極めましたのは、平安末期から鎌倉時代に及ぶ、第三代門主慈圓(慈鎮和尚、じちんかしょう、藤原兼実の弟)の時です。慈圓は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡しました。また、日本人初めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」も残しております。

慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。親鸞聖人の得度の折、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、境内北側にございます。


十七代門主の尊円法親王は伏見天皇の第六皇子で、名筆家として知られています。和風唐風を融合した尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流でもあります。


室町時代には後に室町幕府第六代将軍足利義教となる義圓が門主を務め、また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けています。


一部 青蓮院門跡 公式サイトから