酒井雄哉大阿闍梨

❖ダメ人間も変わる「一日一生」の極意


北嶺大行満大阿闍梨 酒井雄哉大僧正


 

―何よりも実践を重んじる。それが酒井雄師の生きざまだ。「大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)」など最高位の尊称を持つ高僧だが、その経歴はいささか異色。特攻隊からの復員後、さまざまな職業を経たのちに僧侶としては異例の40歳で得度し、数々の修行を重ねた末に、比叡山に伝わる最大の難行「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」を2度も満行した。これは歴史の残る天正13(1585)年以降、3人目という偉業である。


千日回峰行は7年をかけて比叡山中と京都市内(これを「京都大廻り」という)を延べ4万キロ歩きとおすほか、9日間の不眠・不臥・断食・断水をともなう「堂入り」の行を必須とする。「不退行(ふたいぎょう)」とされ、行が続けられない場合は自害するのが決まりである。酒井師は文字どおり死を賭して究極の荒行に挑み、自己を鍛えるとともに、国民の幸せや国家の安泰、世界の平和を一心に祈念した。ゆえに、その言葉には千金の重みがある。

 

回峰行に入るときには、先達の阿闍梨さんが1日だけ同行してくれるけど、そのあとは自分で書き写した「手文(てぶみ)」を頼りに、提灯1つを下げ、夜半過ぎに出発して、けもの道みたいな山道を歩いていくんだよ。普通は1日に40キロ、京都大廻りでは84キロを歩くんだ。


真っ暗な中を歩いて怖くはないかと聞かれることはあるけれど、とりわけ怖いとは思わなかった。たしかに、いろんな気配を感じることはある。山の中で黒い影とすれ違ったり、そうかと思うと、谷の下のほうから食器を洗う音や、大勢でわいわい話している声が聞こえてきたりするんだよ。


そのときはさすがに不思議だったから、翌日、谷の下にある日吉大社(酒井師が歩いた千日回峰行・飯室谷ルートの途上にある古社)に電話をかけて「きのうはずいぶん大勢の人がキャンプか何かで集まっていたようですね」と聞いてみた。すると相手は「そんなはずはありません」というんだな。「私はいつもこの社務所にいるから、それだけの人数が来ていたら絶対にわかります」とね。


こういう不思議なことはあるんだよ。でも、怖いとも何とも思わなかった。


なぜかというと、僕が自分というものを信じていたからだ。自分は仏さんを信じて行をやっている。その自分を信じていれば、静かな心で歩みを進めることができるんだ。もしそれがなかったら、暗い森にさしかかったあたりで、一目散に逃げ出しちゃったかもしれないね。


そもそも自分で「やります」といったからには、自分を信じて進まなくちゃならないのが行なんだ。他人の助けなんて役に立たない。仕事でも何でもそうだけど、アドバイスをしてくれる人ならいるかもわからない。でも、実際に行うのは自分だけ。それ以外にないんだからね。


お釈迦さまは入滅のときに「自らをたよりとし、他人をたよりとせず」とおっしゃった。当時の僕はその言葉を思い浮かべていたわけではないけれど、結局はそういうことだったと思うんだ。

 

「回り道」をしたから、あの苦行ができた


自信を持つには、何でもこつこつ一生懸命に続けることだ。たとえば本を書く人なら、自分なりのやり方で、一生懸命に書き続けていく。そのうちに自分の気持ちと筆とが一致するときがくるんじゃないのかな。


外面だけを見て、データを切り貼りしたような本もあるけれど、そこには心が入っていないよね。逆に、自分の中から一生懸命言葉をつむぎだしていくなら、途中で失敗して苦しんだとしても、そのときの気持ちが入ってくるから、すばらしい作品ができると思うんだ。


僕の場合は、40歳でお坊さんになったでしょう。千日回峰行を始めたのも50歳近くになってから。あのころ、50歳といったら隠居するような年ですよ。だから自分は剣が峰に立たされていると感じていた。ここで失敗したら、ゼロになっちゃうという気持ちだよ。


とくに千日回峰行というのは「不退行」だから、後戻りは許されない。獅子の仔が千尋の谷へ突き落とされるのと同じで、いったん行に入ったら助けてもらえない。どんなことがあっても、ぐいっと爪を立てて山を登っていかなければならないんだ。断食・断水の「堂入り」のときなんか、4日目くらいになると自分の体から死臭が漂うのがわかるんだよ。それでも真言を唱えながらひたすら耐える。


それは、自分というものを信じなければできないことだ。信じることができなければ、途中で「いい加減にやめておこう」「こんなにおいしいものがあるんだから、あっちに寄っていこう」と気持ちがくじけてしまう。「自分はこれでいく。やり遂げるんだ」という強い意気地を持つことが大切なんだよ。


強い気持ちを持つには、人生を大局的に見ることだ。あらかじめ自分の生涯の路線を決めておく。そうすると、まわりの小さな利益とか細かな問題は放っておいてもいいんだからね。


 

僕にとっては行の道が生涯の路線だったわけだけど、ここへくるまでは失敗の連続だったんだ。大学図書館に勤めれば途中で投げ出す、セールスマンやラーメン屋、株屋をやってもうまくいかない。結婚してもすぐに女房に死なれちゃってね。だけど、いまやっていることだけは自分に適していたと思うんだ。俗っぽい言葉でいうと、ここがいちばん「住みいい」ところだったんだ。


そういうと、最初からお寺に来ていたらよかったと思うじゃない。でも、回り道をしてきた甲斐もあるんだよ。普通のお坊さんなら15歳くらいで寺へ来る。僕が回り道をしないで、若いころにこの道へ入っていたらどうだろう。住職になったらそれで満足して、千日回峰行はしなかったかもしれないな。


僕は外の世界を知っていて、しかも失敗ばかりしていたから、よけいに山の「住みいい」ことがわかるんだ。池の鯉だって、ただ泳いでいるうちは水の楽しさやありがたさはわからない。陸に引き揚げられてはじめて、水のよさがわかるんじゃないの。それと同じだと思うんだ。


もしかしたら、仏さんが上のほうから僕のことを眺めていて、「こいつは何やらしても駄目だから、仏の仕事に携わらせてやろう」とお考えになったのかもしれないね。かといって、若いうちに仏さまの知識を授けおくと、険しい修行に向かわず、お寺の経営とか仏典研究とか別の道へいってしまうかもしれないじゃない。それで、知識がゼロのままいきなり剣が峰に立たせて、行をはじめるしかないところへ引っ張ってきてくれたのかもしれないと思うんだよ。


お坊さんにならなくても、都会でばりばり仕事をしていた人が、ある日突然、信州の山奥で農家仕事をはじめるということもあるんだよ。その人に聞いてみたら、電気もないような暮らしだけれど、とても楽しいというんだな。都会にはもう未練はない。「住みいい」ところに来ることができて、いまが一番幸せという。


そういうものかもしれないな。


引用 PRESIDENT2011年