阿闍梨【外伝】一隅を照らす

❖宗教の違いを超えて、禅僧と神父が語る「信仰心を持つ」意味

引用 WEB VOICE 2023年4月9日

横田南嶺(臨済宗 円覚寺派管長)、片柳弘史( カトリック宇部教会主任司祭・神父)



 

近年、カルト教団の問題や政治との癒着など宗教をめぐる批判が多い。だが、宗教は本当に社会にとって不要なものなのか。「キリスト教と仏教の共通点」「宗教の良さ」について、禅僧と神父が互いの考えを話し合った。


 

「虚しさ」と「空」...執着で一杯の心に神は入れない


【片柳】ローマ教皇フランシスコは、即位後の最初の公式文書の中で、現代社会の最大の問題は「虚しさ」である、と指摘しました。私たちは何によって心を満たしたらよいかわからず、「幸せとは何か」を見失ってしまったというのです。


たとえば、人間には金銭や名誉を欲する気持ちがあり、「有名になってちやほやされる」ことが幸せだと考えてしまいがちです。


しかし、たとえ成功して名声を得たとして、そのために人々からちやほやされる、ということは、失敗すれば人々が自分のもとから離れることを意味しています。それが果たして幸せといえるでしょうか。


成功しても失敗しても傍に居続けてくれる人、自分を決して見捨てない人。そんな人と出会えたとき、人間の心は初めて満たされ、幸せを感じるのだと思います。


【横田】仏教では「虚しさ」と「空」を分けて考えます。おっしゃるような名声や財産は我欲であり、たしかにいくら追求しようと満たされないのが世の中の真理でございましょう。


他方、「空」というのは我欲とは異なるもので、むしろ我を離れて他人との境をもたない世界、というほうが近い。たんに何もない、という意味ではなく、差別や区別を超えた大きな世界が広がっている、大きな力によって人間が生かされていることを見る、という視座に転じることではじめて気づくものです。


皮肉なことに近年、世間は不景気で個人の願望が叶いにくい分、逆に「空」に近づいているのではないか、といえるかもしれません。


【片柳】キリスト教でも、マザー・テレサが「自分を空っぽにしなさい」といっています。執着で一杯の心に神は入れない。空っぽになったとき、はじめて神の愛が流れ込んで心が満たされる、という教えです。


自分というものにこだわっているあいだは、私たちは決して救われることがない。反対に、誰かのために自分を差し出して自分を忘れたとき、本当の自分を見つけるということでしょう。


【横田】詩人の茨木のり子さんが、マザー・テレサについて書かれた「自分を無にすることができれば かくも豊穣なものがなだれこむのか」(『倚(よ)りかからず』)という一節を思い出しますね。


慈悲と愛は、時として相手の重荷になる


【片柳】カトリックの信仰には、「すべてのものの中にイエスを見る」という教えがあります。マザー・テレサはつねづね「相手の中にイエスを見なさい」とおっしゃっていました。


いま自分の目の前にいる人をじっと見つめるなら、その人の中にイエスがいるのがたしかに感じられる、という。その人の内に宿った生命の神秘に気づいて感動するということでしょう。


【横田】なるほど。いわれてみると仏教にも、文殊菩薩という仏様がおられます。文殊菩薩は最も貧しい人間の姿をとって現れる、といいます。


鎌倉時代の僧・忍性は、ハンセン病など重い病を得た人、世間から見放されている人たちを極楽寺に迎え入れました。彼らの世話をすることは、文殊菩薩を信仰するのと同じである、というのです。


【片柳】キリスト教の考え方とよく似ていますね。


【横田】慈悲や思いやりというのは、人間誰しも大なり小なりあるものです。ところが人生というのは難しいもので、相手に何か役立つことをしてあげたい、喜んでもらいたい、という思いや行動が、時として相手の重荷になってしまうことがあります。


たとえば家族愛はいうまでもなく大切です。わが子を慈しむことは、何にも替えがたい振る舞いでしょう。しかし他方、いつまでも親離れならぬ「子離れ」ができない母親のように、わが子の行動を縛る愛がかえって苦痛をもたらしてしまうことがある。われわれがそうとう注意していないと、陥りがちな過ちです。


【片柳】おっしゃるとおりで、「愛する」というのは相手の幸せを願うことであり、相手を自分のものにすることではありません。自らの思いを相手に押し付けることを愛と勘違いすると、子どもを縛ることにつながります。


しかし、その人にとって何が幸せなのかは、本人にしか分からない。自分の幸せを見つけようと懸命に努力している相手に、そっと寄り添う。それが愛の基本だと思います。


【横田】貧しい人を見て「可哀そうだから、何か恵んであげよう」という気持ちが生じるのは普通のことです。


けれども、他者との比較において優越感を覚えるような施しは、やはりどこか仏教の本筋から外れるところがあります。優越感ではなく、相手との一体感のなかで接するような、自他の隔てをもたない感覚が必要なのでしょう。これは「言うは易(やす)し」で、たいへん難しいものがあります。



 

祈りとは「自分の本当の望み」を知ること


【横田】教会で祈る、ということによって、ものの見方が変わってくることはありますか。


【片柳】たしかに皆が一堂に会して祈ることで、より神の存在を意識しやすくなる、ということはあります。


他方、普段の祈りは一人で行うもので、その際に求めるのは自らの「本心」。言い換えると「自分の本当の望み」を知ることです。私たちの心の最も深いところには神、すなわち愛が住んでいて、愛を生きることこそ自分の本当の望み、すなわち本心である、ということ。


ですから、「神に従う」というのは、決して「他者に命令される」という話ではなく、自分の本心に気づいて、自分の本心のままに生きるということなのです。


「自分が望んでいるものは何か」と問うたとき、先述のようにいくら富や名声があっても、愛がなければ虚しい。欲望や感情から解放されて、自らの本心である愛、すなわち神に立ち返る、それが祈りの意味である、といえるでしょう。


【横田】本心は愛である、というのは素晴らしい言葉ですね。われわれはよく「仏心」という言葉を使います。仏の心とは何か。それは慈悲であり、万物は慈悲の心を具(そな)えている。すべてのものに慈悲がある、と気づくのが仏心であり、禅の行ないといえます。


 許し、ゆるされること


【片柳】私たちイエズス会の伝統に「霊操」という祈りのプログラムがあります。1カ月に及ぶ霊操の1週目にあるのが、「ゆるされてある私」を自覚することから神との出会いを始める、というものです。


【横田】ああ、なるほど。


【片柳】すべての人間は罪に染まっている、という点はあるにせよ、罪の意識を抱くだけでは信仰には至らない。むしろ自らの不完全な部分、罪深さを感じるほど「そんなわたしであっても、神にゆるされ、いまここに生かされている」ことへの感動が生まれ、それが信仰につながるわけです。


【横田】この境地に達するまで、私も長いあいだ苦労しました。「ああ、何だ。自分は許されていたんだ」という。八木重吉(詩人)が「あき空を はとが とぶ/それで よい/それで いいのだ」(『秋の瞳』)と気づいたように、お日様の光、水、空気、すべてが慈悲によって与えられていること。


人間の一呼吸すら「許されたもの」であり、ただ足で地面を踏んでいるだけで感動と喜びが得られる。これで十分という気がいたします。


【片柳】私が近著『 何を信じて生きるのか』のラストシーンに描いた光景が、まさに横田師のおっしゃった場面に近い。生きる意義や目的を見失った青年が、教会の花壇に植えてある花、空を舞う蝶を見てはっと気づく――「この世界、なかなかいいぞ」と。


最近、宗教のさまざまな問題点が指摘されていますが、少なくとも私は「生きているだけで、実はすごいことなのかもしれない」と気づかせてくれるだけでも、宗教には存在する意味があると思うのです。

https://youtu.be/E8KM_OZl1Mg


https://voice.php.co.jp/detail/10250?p=1