阿闍梨【外伝】

❖最澄の思い、延暦寺・根本中堂で見た


引用 朝日新聞 2021年3月26日 



 

天台宗の総本山で世界遺産の比叡山延暦寺(大津市)は今年6月、天台宗の宗祖・伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)の1200年大遠忌(だいおんき)を迎える。創建の地に立つ国宝の総本堂「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」。5年前から大改修が進む堂内を、礒村(いそむら)良定(りょうじょう)・保存修理事業事務局幹事の案内で訪ねた。


延暦寺は静寂の中にある。町なかより気温は低く、比叡山は別世界だ。


 境内は東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の3エリア。このうち創建の地である東塔に根本中堂はそびえる。織田信長による焼き打ち後、徳川家光が再建した。


 坂道を下った先に、お堂を覆う工事用素屋根(すやね)が見えた。「980年にお堂に廻廊(かいろう)を新設した際、辺りを掘削して造成したため、現在のくぼ地のような地形になりました」。礒村さんが教えてくれた。


 堂内は、手前から外陣(げじん)、中陣(ちゅうじん)、内陣(ないじん)に分かれている。この3部構造が、幾度の焼失や復興を繰り返したお堂の歴史を物語る。


 起源は、最澄が構えた三つの小堂(一乗止観院(いちじょうしかんいん))だった。最澄没後の887年の改修で、3堂は大きなお堂に覆われた。現在の内陣に並ぶ三つの宮殿(くうでん)は、創建時の3堂を象徴している。


 参拝者が祈る場の中陣と外陣の間には段差がある。縁側だった外陣を、現在の規模になった980年の改修で堂内に組み込んだときの名残だ。


 中陣を見上げると、格子を井桁(いげた)状に組んだ格天井(ごうてんじょう)に、花の絵が200枚描かれていた。全国の大名がお供え物として描かせたそうだ。当時珍しかったカボチャもある。


 内陣を見ると地面がかなり低いことに気づいた。「中陣とは3メートルの差があります」。これには理由があると言う。


 「仏様の方が偉いのではなく、私たち一人ひとりも仏になることができる。この伝教大師の教えを、内陣の中央におられるご本尊と中陣の私たちが同じ高さになることで表しているのです」


 本尊は秘仏の薬師如来(にょらい)。その前に灯籠(とうろう)が3基並ぶ。


 「不滅の法灯(ほうとう)」だ。



 

 最澄が自ら彫った薬師如来の傍らにともしたのが始まりとされる。現代まで絶えることなく輝き続ける。


 「一隅(いちぐう)を照らす人こそが国宝(国の宝)である」と説いた最澄。各自がその場所や立場で最善を尽くすことで、誰もが幸せに過ごせる世にしたいと願った。「法灯は伝教大師の志。この思いを伝えることが私たちの勤めです」


 修理現場も見学させてもらった。お堂の屋根にふかれた銅板はすべて外され、木材の下地がむき出しになっていた。「ふき直す銅板は3万枚になります」


 屋根の鬼飾(おにかざ)りは修理され、軒下の装飾・蟇股(かえるまた)は当初の彩色が施される予定だ。


 2026年。よみがえった根本中堂が再び現れる。


「一隅を照らす、今こそ」阿部昌宏(しょうこう)・天台宗宗務総長インタビュー

 ――阿部宗務総長が、伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)の教えでとりわけ大事にしている言葉は何ですか。


 平安遷都よりも数年前、奈良で勉強していた若い最澄様は、新しい大乗(だいじょう)仏教の教えによって清らかな仏の心による国造りをしたいという願望を抱き、ひとり比叡のお山に登りました。


 「正しい仏の教えを広め、素晴らしい人材を育て、全ての人が仏様になることができるような社会を実現したい」と願い、自分のことだけじゃなく、他の人も大事にしなければいけないという「忘己利他(もうこりた)」の精神のもと、「一隅(いちぐう)を照らす」の実践を唱えられました。


 私の僧侶人生も、伝教大師の唱えた「忘己利他」の精神で、常に「一隅を照らす」人にならなくてはいけないという思いを持ち、今日に至っています。


 伝教大師は、仏の教えにあうことができたからには、誰よりも精いっぱい努力をし、多くの人を導くことができるような強い自分にならなければいけないということを比叡山に登った時に唱えました。自ら刻んだ薬師如来を安置し、灯火(ともしび)をともしました。


 「あきらけく のちの仏の み世(よ)までも 光り伝へよ 法(のり)のともしび」と和歌に詠み、自身が中国で学んだ法華経を中心とした天台の教えこそが最善の教えであり、自分だけの悟りをめざす小乗(しょうじょう)仏教の教えから、人々を仏へと導こうとする大乗仏教の道を目指そうと、比叡山を学問修行の道場としました。


 嫌なことは自分で引き受け、良いことは他人に与え、自分自身のことは忘れてでも、他の人を救う、利益を与える、これが究極の慈悲である。人々が平穏に生きられる世の中にするために、お坊さんとして修行しなさいということを示しました。


 1200年の間、比叡山で修行した歴代の僧侶の方々は、一隅を照らす僧侶となって、世の中に教えを広めました。今日の私を育ててくれた多くの方々もやはり、一隅を照らすことで私を導いてくれました。


 ――最澄の1200年大遠忌という節目に宗務総長に就任しました。どんな思いで大遠忌に臨みますか。


 天台宗では、ここ10年の間に各時代をリードした祖師の御遠忌がありました。


 密教を最終的に確立した慈覚(じがく)大師円仁(えんにん)(864年没)は亡くなってから1150年。浄土信仰を確立した恵心僧都(えしんそうず)源信(げんしん)(1017年没)は亡くなってちょうど1千年。回峰行(かいほうぎょう)を始めた相応(そうおう)和尚(かしょう)の遷化(せんげ)(918年)からは1100年。最後は、伝教大師最澄が今年6月4日、1200年という大遠忌を迎えます。


 コロナ禍のなか、大遠忌の事業をどういう形で営むか、非常に苦慮しています。伝教大師の教えがこれから1200年先にも継続されることを願い、この行事に取り組んでいきます。


 伝教大師の教えは一宗派一宗教にとどまることなく、いま世の中が求めていることに十分応えうるものです。広く伝え、継承していくことが私の大きな役目です。


 ――大遠忌にあわせて予定していた「不滅の法灯(ほうとう)全国行脚」は、コロナ禍で中止を余儀なくされました。


 「不滅の法灯」は、伝教大師が延暦寺の総本堂「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」に灯火をともしたのが始まりです。あの灯火は、20センチほどのお皿の中に菜種油と灯心でともっています。油がなくなれば、火は消えてしまいます。


 油を断つということは、比叡山から勉強する僧侶がいなくなることを意味しています。仏法の教えが途絶えることがないよう、後に続く者はお山で一生懸命頑張って修行しなさい、明かりの下で勉強しなさい、という教えです。「油を断つ」と書く「油断」は、「不滅の法灯」から出た言葉だと言われています。


 1200年の間、一度たりともこの灯火は消えたことはありません。全国の方々が灯火を拝むことで1200年の歴史を感じてもらいながら、心の灯火として持ち帰ってもらう。これが根本中堂のありようだと私は思っています。


 大遠忌に際し、この灯火に全国の方々が手を合わせ、心の灯火として人生を歩んでほしいという思いから、灯火を「行脚」という形で、全国の天台宗寺院に置いて拝んでもらえるような機会を準備していました。しかし、コロナ禍の終息が見えない事態で、やむを得ず凍結しました。


 根本中堂は今、大改修事業を進めています。大改修が終わった折に、不滅の灯火を全国行脚という形で、改めて伝教大師の精神を皆様に知ってもらい、また参拝してもらえるよう順次計画していきたいと思います。


 ――延暦寺の根本中堂は、阿部宗務総長にとってはどのような位置づけになりますか。


 根本中堂は、伝教大師の精神とその願いがこめられたお堂です。また、その教えが建築上に具現化された最重要道場です。


 私の僧侶生活の大半は、根本中堂でのお勤めでした。延暦寺には、根本中堂を参拝する皆さんに説明し、教えを伝える役目があり、私はそれに長く携わりました。


 根本中堂は私を育ててくれた修行道場です。堂内の明かりや線香の香りは、いまだに忘れることができません。あの香りや明かりを拝んだ瞬間、今から40年前の私の志を思い起こす道場で、私にとって一番大切なお堂です。


 根本中堂の大修理が終了したあかつきには、次代を担う若い人々にもお参りしてもらい、伝教大師の教えや不滅の灯火に触れて精進してもらえれば、と思います。


 ――コロナ禍だからこそ伝えたい最澄の教えをお聴かせ下さい。


 現在のコロナ禍の中で、最澄様の教えのひとつを紹介したいと思います。


 最澄様は、一人ひとりが生まれながらに持っている「仏の心」(仏性)に目覚め、命の大切さに気づき、他の幸せを願う心がわき起こってくれば、自他ともどもに、真に安らかな光に包まれていく、と唱えました。


 コロナ禍で閉ざされた人の心の闇を照らすには、神仏の力において他にはないと思います。私ども宗教者は、神仏の光明を掲げて、社会不安を和らげる使命があります。


 とりわけ伝教大師を祖師と仰ぐ私どもは、コロナ禍による社会の閉塞(へいそく)感に、国民へのメッセージとして、今こそ祖師の精神である「一隅を照らす運動」を推進しなければいけないと思っています。


 天台宗が掲げる一隅運動の実践は、生命(いのち)・奉仕・共生を実践活動の柱としています。


 生命――あらゆる命を大切にしよう。


 奉仕――みんなのために行動しよう。


 共生――自然の恵みに感謝しよう。


そのひとつでもいいので、自分の置かれた立場、年齢や住んでる場所、仕事の内容を、それぞれ皆さんの人生の中において「己を忘れて他を利する(忘己利他)」の精神で毎日の生活を送ることで、コロナ禍での自身のありようについても見えてくるのではないだろうか、と思っています。



 

伝教大師最澄と根本中堂の年表


766(天平神護2)年 ※一説に767年 近江国古市郷(大津市)に生まれる


778(宝亀9)年 行表法師に入門。2年後、得度し法名「最澄」に


785(延暦4)年 東大寺で受戒。比叡山に入り草庵(そうあん)を結ぶ


788(延暦7)年 比叡山上に一乗止観院(根本中堂)を創建


794(延暦13)年 根本中堂で初度供養。南都諸大徳が出仕


804(延暦23)年 還学僧として唐へ。翌年帰国


806(延暦25)年 天台宗が公認される


822(弘仁13)年 6月4日、比叡山で入寂


823(弘仁14)年 嵯峨天皇より「延暦寺」の寺号を賜る。一乗止観院は根本中堂に改称


866(貞観8)年 清和天皇より日本で初めてとなる大師号「伝教大師」の諡号(しごう)が勅許


887(仁和3)年 6年をかけて、三堂を合わせて9間の大堂一宇に造替


935(承平3)年 火災により焼失


938(天慶元)年 尊意座主の再建


980(天元3)年 現在と同規模の11間の大堂に改修。廻廊や中門を新造


1435(永享7)年 足利6代将軍義教との争乱で焼失


1443(嘉吉3)年 この頃までに再建


1499(明応8)年 管領細川政元の軍勢による焼き打ちで焼失


1518(永正15)年 再建


1571(元亀2)年 織田信長による比叡山焼き打ちで根本中堂などが焼失


天正年間 豊臣秀吉による仮堂再建


1634(寛永11)年 台風により倒壊


1642(寛永19)年 徳川家光の命で、8年をかけ、現在の根本中堂が完成


1798(寛政10)年 大改修により本堂の屋根を栩(とち)葺(ぶ)きから銅板葺きに変更


1955(昭和30)年 昭和の大改修


2016(平成28)年 約60年ぶりの大改修。2026年までの予定

https://www.asahi.com/articles/ASP3S3D7FP3HPTJB00P.html