❖阿闍梨【外伝】 赤山禅院


今回は、日頃ご紹介しています、酒井雄哉大阿闍梨さんの足跡とは少し離れますが、千日回峰行の大切な修行の一つ『赤山苦行』の舞台である、『赤山禅院』をご紹介します。


赤山禅院山門


 

赤山禅院について  由緒


赤山禅院(せきざんぜんいん)は、平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主円仁の遺命によって創建された、天台宗総本山延暦寺の塔頭のひとつです。


慈覚大師円仁(794年〜864年)は、838年、遺唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台教学を納めました。その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされます。日本に戻った円仁は天台密教の基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられています。


本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものです。泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っています。現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めている由縁です。


また、赤山禅院は、


◇天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺


◇千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」「泰山府君祭」をはじめとする加持・祈祷が行われる寺


◇全国の七福神めぐりの発祥とされる都七福神のひとつ、福禄寿の寺


◇「五十(ごと)払い」の風習の始まりとなった、商売繁盛の寺


としても知られています。


開創以来、1100年以上もの長い歴史を経て、赤山禅院には数々の由緒が重なり、さまざまな信仰を集めています。


千日回峰行、赤山苦行のお寺


赤山禅院は、天台宗の数ある修行のなかでも随一の荒行として知られる、千日回峰行と関わりの深い寺です。千日回峰行は、平安時代、延暦寺の相應和尚(831年〜918年、一説に〜908年)により開創された、文字どおり、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。


法華経のなかの常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものといわれており、出会う人々すべての仏性を礼拝された常不軽菩薩の精神を受け継ぎ、回峰行は、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝して歩きます。行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはさ、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます。


千日回峰行は7年間かけて行なわれます。

1年目から3年目までは、1日に約30キロの行程を毎年100日間、行じます。行者は定められた260カ所以上のすべてで立ち止まり、礼拝して、峰々を巡ります。


4年目と5年目は、同じく1日30キロを、それぞれ200日間。


ここまでの700日を満じると、“堂入り”をむかえます。比叡山無動寺谷の明王堂に籠もり、9日間、断食・断水・不眠・不臥(食べず、飲まず、眠らず、横にならず)で不動真言を唱えつづけます。その回数は10万と言われ、満行すると阿闇梨と称され、生身の不動明王になるとされます。


6年目は、それまでの行程に加え、比叡山から雲母坂を下って赤山禅院へ至り、赤山大明神に花を供し、ふたたび比叡山へと上る往復が加わり、1日約60キロとなります。その100日は「赤山苦行」とも呼ばれ、行者の足でも14〜15時間を要する厳しい行程です。


7年目は、200日を巡ります。前半の100日間は「京都大廻り」と呼ばれ、比叡山中から赤山禅院、さらに京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどおり比叡山中 30キロをめぐり、千日の満行をむかえます。


赤山禅院では、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職をつとめ、大阿闇梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめとする数々の加持・祈祷が行われています。


慈覚大師 円仁の遺言


15歳で伝教大師 最澄に師事し、最澄の入滅後の838年、さらに天台教学を学ぶため、遣唐使団とともに唐に渡りました。円仁はその様子を『入唐求法巡礼行記』に詳しく記しています。


10 年近くに及んだ留学は、困難を極めました。ときに唐は、晩唐の混乱期で、旅の安全が保証される状態ではなく、仏教にも非寛容だったのです。遣唐使団が帰路についたとき、目的を果たしていなかった円仁は、登州(現在の山東省)の赤山という地で下船。土地の居留民である新羅人に親切にされ、赤山の山中にある赤山法華院に滞留します。そこで、赤山の神々に五台山巡礼を願い、成就すれば日本に赤山禅院を建てることを誓ったとされます。


円仁はその後、長い旅を続け、ついに五台山巡礼を果たし、さらに、唐の都、長安に学ぶことができました。折からの武宗皇帝の仏教弾圧に遭い、あまたの仏寺が壊され、僧が還俗させられる中、天台の秘法を修め、貴重な図画や曼茶羅、経典などを持ち帰ることとなったのです。


円仁の一行は、日本への帰路でも何度も遭難しそうになりました。そのとき、船のへさきに赤い衣を着て白羽の矢を負った赤山明神があらわれ守護した、とも伝えられています。


日本に戻った円仁は、第三世の天台座主となり、多方面にわたる精力的な活動によって天台密教の基礎を築きました。しかし、赤山禅院を建てるという念願は果たすことができませんでした。


病の床についた円仁は、安慧(あんね、後に第四世天台座主)をはじめとする弟子たちを呼び、その遺言の中で、赤山禅院の建立を命じたとされます。


赤山禅院が現在の地に創建されたのは、円仁の入滅から20余年後の888年のことでした。


不動堂 不動明王像は伝教大師作




 

赤山の阿闍梨さま


赤山禅院の住職を勤めている、叡南俊照大行満大阿闍梨は親しみと尊敬を込めて「阿闍梨さま」と呼ばれています。


昭和18年(1943年)生まれであり、昭和54年、36歳の時に千日回峰行を満行しています。


「赤山の御前さま」と呼ばれ人々から愛された先代住職、叡南覚照 大行満大阿闇梨を師とし、厳しい修行をする中で多くのことを師から学んでこられました。 実直で慈愛に満ち、高僧でありながら気さくで多くの人から慕われ愛される「赤山の阿闍梨さま」についてご紹介します。


小僧時代


阿闍梨さまこと俊照師は香川出身で、幼い頃は野球が好きな少年だったという。彼は、中学二年生の時に香川県にある金倉寺の小僧となった。当時、金倉寺の住職をしていた大岡俊謙老師は俊照師について「それまで抱えてきた小僧の中で特に真面目で、私がいくら遅く帰ってきても、きちんと起きている。律儀なこどもだと思っておりました。お経もよく学びましたし」と語ったそう。熱心に小僧の仕事をしていたことが伺える。その後、比叡山高校に入学し、無動寺谷の玉照院での小僧生活が始まった。これが俊照師と、師匠となる覚照師との出会いだった。


師資相承という言葉がある。「師が弟子に口頭で奥義などを伝え、代々伝承していく」という意味だ。言葉だけを見ると何となく想像がつくが、仏教の世界では単に弟子が師匠から何かを受け継ぐというだけではない。死をも覚悟する厳しい行者修行の過程で、師匠と弟子は一心同体とも言える精神交流で結びつき、心構えや修行の術を身をもって受け継ぐのだ。俊照師と師匠である覚照師、お二人もまた師資相承。師匠に「おまえ、もうあかんな。はよう荷物まとめてね!!」と厳しい言葉を投げかけられることもしばしば。それでも弟子はただ師匠を信じ、ついていく。俊照師はどれだけ師匠に厳しいことを言われても、辛抱できないからと寺を飛び出すようなことはなかったそう。それだけの覚悟と努力、根性を俊照師は持ち合わせていた。


無動寺谷に来てから最初はずいぶん戸惑ったという。たとえば金倉寺で小僧をしていたときは、住職にどこをどうしろと指示された。それが習慣になっていたから玉照院でも、「ご用はありませんか」と聞くと師匠は即座に「ない」の一言。それが続いたある日、「おまえ。何かご用はありませんかとはどういうことじゃ。汚れとったら掃除すればええ。薪がなかったら薪をつくれ」とどなられたのだ。寺によって弟子の育て方は違うもの。無動寺谷ではすべてを小僧に考え行動させるのだ。けれど出来なければひどく怒られる。そしてやがては身体で覚えることになる。


また、小僧の”後押し”も行者の師資相承といえる。俊照師も小僧時代は師匠の千日回峰行中、長い道のりを歩く師匠の腰にY字の棒を当て、後押をして来た。「後押し棒のY字の方は師匠の腰にあて、一方の端を掌で押さねばならない。これもつらい修行で、ちょっとでも師匠と歩幅がくるえば隙間ができては落ちる。師匠にどなられる。すべてが一心同体にならなければ、うまくいかんのです」と俊照師は語った。


師匠が左へ足を踏み出せば弟子も左、右なら右へ、歩幅もすべて同じでなければならない。こうして師匠から行者の歩行のリズムや、どこでどのようなことを唱えるのかまで、千日回峰行のやり方を小僧時代から身につけていったのだ。


回峰行


昭和49年(1974年)3月27日、俊照師の千日回峰行が始まった。行者は人間のあらゆる欲望を断ち身体の限界を超えた時、心中に不動明王が現れるのだという。俊照師も不動明王の加護を受けて千日回峰を満行した行者の一人であった。


千日回峰も600日目の昭和52年5月末であった。 夜中に激しい腹痛に襲われ、うなり声をあげてトイレにかけこんだ。それでも定刻どおり午前2時には頭の山門を出たが、途中十メートルも歩けないほど苦しんだ。休むことは出来ず、死にものぐるいの難行であった。それが一週間も続いたのだ。俊照師はこのときの腹痛と脱水状態が行中最大の難儀であったと回想する。そして、気力と体力が限度を超えたとき、ふと不動明王が心をとらえたというのだ。


俊照師が縁側でしばらく横になっていると、師匠はどなりつけたのだ。

「たわけ!行者は寝とるもんやない。歩くもんじゃ、はよう行け。」

これほど衰弱しているのだから、いくら厳しい師匠でもやさしい言葉をかけてくれるだろう。と俊照師は弱気になっていた。その弱気を打壊するかの師匠の一喝。俊照師はもう死ぬ思いで歩くほかなかった。


その翌日、午前2時に山門を出て、西塔の釈迦堂に着いたのが数時間遅れの6時間半。そのとき師匠があずかっている小僧が駆け寄って来て「御前様は深夜の零時からここでじっと待っておられました」と言った。うがい用の茶筒を持った小僧を見たとき、師匠の配慮が胸につまったそう。涙があふれ出て、泣きながらまた歩いた。それから朝日に照らされた琵琶湖を山上から見おろしたとき俊照師は気づいた。

「行者はすべてをお不動さんに任せて歩くものではないか、行者即お不動さまであるはずなのに、実際は何も任せていなかった。情けない」。俊照師は行者としての使命を理解したのだ。


堂入り


700日を満行すると、そのまま明王堂に籠って、9日間、断食・断水・不眠・不臥の行つまり堂入りに入る。これもまた、過酷な行であり人間の限界を超えて真言を唱え続ける。そうして行者は生き菩薩に生まれかわるのだ。


俊照師は意外にも、そこまで耐え難くはなかったそうだ。というのも俊照師にとっては以前経験した1週間の腹痛の方が苦行だったのだ。無事に九日間を終え、いよいよ出堂の刻限。その直前に「満願の証明」が読み上げられ、椀に入れた「朴の湯」が手渡される。それをゆっくりと口に含んだ時、俊照師は天上天下唯一の気分で、実に素晴らしい心境でただただ嬉しかったのだそう。そして、堂を出る時も師匠の教え通り、介添を断り堂々と一人で歩いて明王堂から出たのである。その誇らしげな顔は俊照師の出堂に集まっていた人々を魅了したことだろう。


堂入りを無事に果たし、その次の赤山苦行と京都大廻りも無事に満行した。京都大廻りの最後の日、深夜にも関わらず北野天満宮では多くの信者が俊照師の姿を待ち侘び、無事に京都大廻りを終えた俊照師に花束の贈呈もあったとのこと。さらに赤山禅院では出迎えをする人々が一千人近くもいた。俊照師はこんなにも多くの人が祝福してくれるのかと感無量で涙を流した。それだけ俊照師は多くの人から慕われているのだ。


その後、最後の100日間も気を引き締めて歩き続け、昭和54年9月18日午前8時20分に千日回峰行を満行したのである。


引用 赤山禅院公式サイト

【赤山禅院】

所在地  京都府京都市左京区修学院開根坊町18

寺格   延暦寺別院

本尊   泰山府君(赤山大明神)

創建年  伝・仁和4年(888年)

開山   安慧