❖『観』と『見』はどう違うんですか?


『コップをあるがままに見たら、長方形とか丸とか、決めつけることはできんということや。お前、目で「見た」やろ?心眼で「観る」でないとダメや。選り好みしたり、善悪を判断したらならん』


得度しても仏門に入ったわけでない俺に、阿闍梨さんは「般若心経くらい言えるようになっとけ!」と言った。その言い付けは守って、ちょっとずつ唱えられるようになっていった。


あるとき、ふと気になった。(なんで、般若心経の最初の文字は「観」なんやろ?「見」とはどう違うんやろ?)機会を見つけて、阿闍梨さんに聞いてみた。


「観」と「見」はどう違うんですか?


すると、そこにあったコップを手に取った。


『このコップを横から見てみい。どんな形や?』


長方形


『じゃあ、真上から見てみい。どんな形や?』



『そやろ?見る角度によって違うんや。ということは、コップをあるがままに見たら、長方形とか丸とか、決めつけることはできんということや。どっちでもあるけれど、どっちでもない。それ以前に、「コップ」とワシが言うた瞬間に自分でイメージをつくったやろ?自分出勝手に考えてしまうねん。人間は、だから、それをやらんように、あるがままを見て、あるがままに受け止めんとあかんのや、頭はいらん。思い込みは捨てろ!


(はあーん、また小難しいこと言い始めたわ)


でも、見えてるまんまですけど、、、、


『お前、目で「見た」やろ?心眼で「観る」でないとダメや


阿闍梨さんは事あるごとに『目の前を見ろ』と言い方もした。これも「あるがままを見ろ」ということ。自分の見たいように見たり、見たくない部分を見なかったり、そういうことは否定した。「すべてを認める」には、あるがままを見なければ始まらないから、『選り好みしたり、善悪を判断してはならん』とも言うてた。


あるときは、食べ物のことを例にして「あるがまま」の話を聞いた。


阿闍梨さんって、蕎麦とか豆腐とか、あんなんしか食うてへんのですか?


『いや、肉も食うで』


肉なんか食うてへんと思ってましたわ


『そら、そういうふうな"タテマエ"っちゅうもんも必要やろ。でも、ワシ自身が嘘言うて「野菜しか食うてません」とは言ったことはないで。皆さんが勝手に思うてることを否定せえへんだけでな。現実、外国行ったら、外国のもんを食わなあかんし、蕎麦も豆腐もないんやから』


まあ、そうですね


『そこにあるもんをいただくことも、あるがままに頂戴するってことや。大事なのは、「命を頂戴してる」という感謝や。肉とか野菜とか何を食うかなんてのは、その後の話や』


『肉とか野菜という形は「見」で分かること。命を頂戴してるってのは「観」でないと分らん』


『「郷に入れば郷に従う」って言うやろ?食事もそうやし、じゃあ「郷」ってなんや?としっかり見ないと自分のわがままを出してしまう。そういう意味で、世の中、目が不自由な人間が多い。あるように見ろ!そうせんと"視点"が狂う。"乱視"になったり、"老眼"になったりして焦点が合わん


阿闍梨さんの話は続いた



大阿闍梨酒井雄哉の遺言 玄秀盛 著 佼成出版社