【外伝】天台比丘 十二年籠山行『侍真』中野英賢大僧正


日本仏教の母山『比叡山延暦寺』には、歴史上も昭和以降も、酒井雄哉大阿闍梨を始め、行学二道を極めた数多くの名僧が生まれました。その中から、『動』の千日回峰行に対して『静』の荒行、比叡山最大の聖域『浄土院』において『十二年籠山「侍真」』を戦後二人目の満行者となった、中野英賢大僧正をご紹介させていただきます。



(中野英賢大僧正筆 薬王山正法寺蔵)




人々に愛された『破戒僧』


天台宗の大僧正 中野英賢さん


二月二十六日 六十八歳で死去


十二年間、山を下りずに修行する『十二年籠山』。十七世紀から続く比叡山で最高の荒行を一九七〇年満行した。師匠の勧めで行に入った時、二十四歳の青年に迷いはあった。しかし『迷うのは己を利する欲があるから。欲に巣くわれた自分を見つめようと』決意を固めた。


山形県河北町の寺に二男として生まれた。家庭は貧しく、中学卒業後、地元の寺を経て比叡山へ。師匠の本を盗んで売ったり、京都祇園のお茶屋に出入りするなど、まじめな僧とは言い難かった。だが兄弟子の叡南覚範さんは『師匠はしんの強さを買っていた。「あいつならやりよる」と思ったのでは』と話す。勧めを受け、籠山を身近に感じて僧としての自覚に目覚めたのかもしれない。


一日わずか四時間の睡眠で、読経、仏書の研究、掃除などが日課。寝起きする浄土院は、最澄上人が眠る比叡山一の聖域で、文字通りちり一つ許されない。毎日が掃除漬けだった。満行後、両肺で七つもの穴が開いているのが見つかったのが、行の激しさを物語る。


満行の年は大阪万博が開かれるなど、日本は高度成長の絶頂にあった。マスコミで取り上げられ『こんな豊かな時代になぜ』と好奇の目を集めた。興味をもって訪ねて来る人もいた。


政界などへ豊富な資金をばらまく『タニマチ』として知られた故佐川清・元佐川急便会長もその一人。佐川氏は延暦寺東塔の再建に資金を投じた。この時、頭を下げるどころか『金だけでできると思ったら、大間違いや』とくぎを刺されたことに大いに感じ入ったという。塔は八二年、織田信長の焼き打ち以来、約四百年ぶりによみがえった。


無類の酒好きでヘビースモーカー。多くの人に愛された『破戒僧』は惜しまれながら寂滅した。


平成十四年三月三十一日 岐阜新聞







(法華総持院東塔 延暦寺)

❖中野英賢師の師匠は、先の大戦後初の千日回峰行者叡南祖賢大阿闍梨です。先般、遷化した叡南覚範大僧正をはじめ、堀澤祖門探題大僧正、藤光賢探題大僧正、小林栄茂大阿闍梨、光永澄道大阿闍梨らと兄弟弟子になります。また、湖東三山・龍應山西明寺(滋賀県甲良町)住職・中野英勝師の師僧にあたります。



中野大僧正については、西明寺公式サイトの住職日記にもございますのでご覧下さい。

https://saimyouji.com/ 



❖比叡山延暦寺・法華総持院東塔再建には、当時十五億近い巨費がかかり、贈与に関わる経費も含めて、すべて佐川清氏が負担されたとのこと。また、中野大僧正と佐川清氏の縁により様々な比叡山において歴史的建造物などの再建事業が行われました。


❖岐阜県郡上市にある、薬王山正法寺(天台宗系単立寺院)は、大手製薬メーカーの寄進によって建立され、中野英賢師が開山一世。その梵鐘も佐川氏の寄贈によるものです。現在の住職は、中野大僧正の弟子、西澤英達師が勤められております。



(薬王山正法寺 岐阜県郡上市白鳥町)


(中野英賢大僧正供養塔 正法寺)


(薬王山正法寺梵鐘 佐川清氏寄進)