☆東北巡礼 東北の人々が持つ純真さ



(酒井雄哉大阿闍梨)



「東北巡礼」


平成四年五月十五日〜六月十二日

慈覚大師円仁の修行の地である栃木県岩舟町の大慈寺を出発し、青森県むつ市恐山まで、「奥の細道」を歩き、慈覚大師の足跡をたどる。途中、日光山、出羽三山、立石寺、瑞巌寺、中尊寺などの霊山、霊跡を訪ね、「自分が今あることは、多数の人々のおかげ」と、お返しの心を訴えて歩く。

延二十九日間、約千六百キロ。



東下りが終わった後、慈覚大師さんの足跡を訪ねて、今度は東北をとっとこ、とっこと歩いていった。その時天台宗の仏教青年会が、いつ頃に僕たちがどこを通過するかを、電話で各地に連絡してくれたおかげで、口コミや新聞でその情報を知った多くの人々が、行く先々でお加持を受けるために待っていてくれてね。それに、小学校の児童や幼稚園の園児たちが、園長さんや先生と一緒にずーっと並んで、朝や雨の中でも出てきて、お加持を受けてくれたんだ。


ある時は、おばあちゃんが家から出てこられなくて、僕が家の中まで入っていってお加持をしたこともあった。家の中で、おばあちゃんがお数珠を持って待っていてくれて、お加持したら、「もう、死んでもいいわ」と、笑顔になって言ってくれたこともあったな。


途中で立ち寄った福島県のあるお寺は、僕のお師匠さん(小寺文穎師)の娘さんがお嫁に行ったお寺だった。そのお寺には、娘さんの妹も来てくれていた。二人とも、お師匠さんのところで一緒に生活していたから、やっぱりなつかしいよなあ。娘さんの旦那さんも、叡山学院で一緒に勉強していた人だからね、里帰りじゃないけど、親戚の家に行ったような感じで、とてもなつかしかったね。



(天台宗準別格本山 小野寺山大慈寺 栃木県岩舟町)

(大慈寺相輪塔)


東北の人は、行者の行列をあまり見たことがないから、どこへ行っても歓迎がすごかったよ。岩手県の北上のほうへ行った時に歓迎をしてくれたご主人は、考古学を専門にしていた。お加持のお礼に、郷土芸能である「鹿踊(ししおどり)の舞」をする人々を呼んでくれて、特別に舞を見せてくれたんだ、獅子頭をつけた人々が太鼓を叩きながら踊るから、すごい迫力だったな。北上の上流で拾った、五百年前の石をお土産にいただいたりして、本当にすごい歓迎だったよ。


拝んで歩いていると、みんなに気持ちが伝わるんだね。案外と歓迎してくれるんだよ。小学校の先生なんかでも授業の合間に出てくれるし、会社の人たちも出てきてお加持を受けてくれる。東北の人たちは、純真なのかな。ちゃーんと、気持ちが伝わるんだよ。


東北巡礼の時は、宗派や神社関係なしにいろんなところへ参拝に行って、檜で作った小さいお不動さまをお供えしてきたんだな。神社や宗派の違うお寺を訪ねても、境内を貸してくれたり、本堂の中まで入れてくれてお加持をさせてくれたよ。


福島県にある日蓮宗のお寺に行った時、ちょうど雨が降っていた。それで、本堂の前でお勤めをしていたら、だんだん豪雨になってきて、雷がババババーッと鳴って、どしゃぶりになったの。そしたら、そこの住職が感激しちゃって、「こういう状況は、日蓮宗では最高なんです。昔、日蓮上人が禁を破ったために、幕府の逆鱗に触れ、まさしく斬首されるというその時に、刀に雷が落ちて助かった。素晴らしいです。似てますよ。私は感激しました」って言うんだ。そうやって、すごく感動してくれたんだよね。


そんな東北巡礼の中で一番印象に残っているのは、ある子どもとのエピソードだな。下北半島を横浜町から恐山へ向かってず~入っていくと、陸奥湾の海辺の脇に、大湊線と国道が一本ずつ走っていて、冬にはとても通れそうにない道があった。その辺一帯には集落があるんだけど、そこを通り過ぎる時、集落から一人の子どもが、とっとっとっと、とやってきた。


普通だったら「おじさん」とか「どこへ行くんですか」と聞くでしょう。その子は「旅の人!どこいかれるか」って言ったんだ。「なんとまぁ、、、。時代劇そのままだよ」と思ったんだよね。いかに人間が来なかったかってことだよなぁ。親から「知らない人が来たら、旅の人間だ」って言われていたんだろう。僕らが集団で歩いてきたのを見て、「あ、旅の人間が来たんだな」って思ったんだろうな。


それでも、「旅の人!」と声をかけられたのには驚いたよ。体中の力がふにゃんふにゃんに抜けて、時代劇の世界へタイムスリップしちゃったみたいだった。子どもが何気なく、普通の会話で言ったものだから余計にね。僕が「恐山へ行く」と言ったら、その子は僕のことをじーっと見て、「ほんとに行くのかな」という顔をしていた。


あの子は今頃、どうしているだろう? 二年前くらいに下北半島へ行ったら、昔の面影さ残っていたけど、ずいぶん道路が開発されて、景色も変わっていたね。六ケ所村の再処理工場ができてから、それにつられて商いをする人も出てきて、場所によってはにぎやかになっていた。僕が歩いていた当時は、トタン板が風に当たって真っ赤に錆びていて、なんとも言えない、さみしいような感じがしていた。今は、そんなのは一切なくなっていたね。それにしても、「旅の人!」にはまいっちゃったな。今でも忘れられないよ。あの子の言葉は、本当におもしろかったな。


次回、天台寺での奇譚、、


続く、



参考文献


人の心は歩く早さがちょうどいい 酒井雄哉大阿闍梨 巡礼記

酒井雄哉  著  PHP研究所





【酒井雄哉語録】


仏さんが教えてくれた親子の情愛


お坊さんの世界に入って三年坊だった時に小僧さんをさせてもらった小寺文穎師のお寺には、子どもが五人もいた。女の子、男の子が年子で生まれて、一年おいて双子が生まれた。歳の近い子どもたちが五人だ。


子どもたちのお母さんはお寺のことをやって家事をこなしながら、子どもたちを一生懸命育てている。末は双子だから、見ていて本当に大変そうだった。


ぼくは歳を取って小僧さんに入れてもらって世話になっているんだから、何か手伝いできることはないかなあと思っていた時に、お母さんが双子の片方を抱いて、片方を背負って、駆け回るのを見て、「一人預かりますよ」といって、双子の姉の方を預かってめんどうみることにした。


預かったものの、子どもの育て方なんて分からない。とまどうことばかりだった。一人をお風呂に入れようとすると、もう一人がついて来ちゃう。仕方ないから二人いっぺんに入れて、お風呂で洗っていて、気がついたらもう一人がいない。おかしいなあと思ってキョロキョロしたら、風呂桶の中で沈んじゃってる。びっくりして、足を持ってさかさにして、お尻たたいたりしたこともある。そんなことをやりながら、日々暮らしていたもんだから、子どもたちがすっかりなついてしまった。


やがて「三年籠山」をすることになった。比叡山の住職になるには必ず経なければならない修行だ。いよいよ出発の時には、子どもたちが前から後ろからしがみついてきて、「お兄ちゃんいなくなったら寂しいよ、お山へ行くのやめてよ」と泣きついてくる。あの時は泣けてね。ああ親子の別れというのはこんなもんだろうかとせつなかったね。身を切られるようだったけど、とにかく山へ上がんなきゃならないからって、山に上がった。


浄土院での修行が始まった。伝教大師様をお祀りしているところには、塵一つあってはならないのでひたすら掃き清めなければならない。掃除も修行の一つだ。落ち葉が舞う秋から冬にかけてはつらい。ひっきりなしに落ち葉がぱらぱらぱらぱら落ちてくる。掃いて集めて、捨ててまた戻ってくると、掃いた場所は落ち葉でいっぱいになっている。


それを何回も何回もやっているうちに、ホームシックみたいになっちゃった。掃除しながら、「あのちびころ、何してるだろうな」って。そうしたらねえ、ものすごく寂しくなっちゃって、なんとかして会いに行く方法ないかなあと考えてね。「浄土院から抜け出して、坂を下りて坂本まで行って、ちょっと顔だけ見て帰ってこようかな」って何度か思ったよ。


ちょうどそのころはベトナム戦争がたけなわだった。たまたま向こうの戦場の写真を見たんだけど、子どもが泣きながら戦場を駆けめぐっておっかさん探している写真を見たときには、胸が張り裂けそうになった。


ぼくなんか平和なところにいて、本当の子どもでもないのに、こんな気持ちになっちゃった。いま戦場で、子どもと離ればなれになっている人たちがいる。その気持ちは、いったいどれほどだろうか、、、、。


そしてまた思った。ぼくは、お嫁さんもふた月くらいで亡くしていて、家庭のことも子どものことも分からない。でも仏さんが、本当なら味わえなかったことを違った方便で、世間様と同じように味わわせてくれているんじゃないか。仏様の智恵、「仏智(ぶっち)」ってこういうことかなあって。


帳面や本で読んでかわいそうだ、かわいそうだと言ったって、字の上の「かわいそう」だ。実際に自分が味わった「かわいそう」は、また全然違う。やはり日々の行いの中から人の心に素晴らしいものが生まれてくるんじゃないかな。

一日一生