☆酒井雄哉は歩く 和宮の東下り、



(酒井雄哉大阿闍梨)


二千日回峰行を満行した後は、なにも考えていなかった。みんなは、「どうしますか、今どんなことをお考えですか」って聞くんだけど、僕は「今日で終わったのかなあ」という感覚だった。


「十二年の籠山が切れちゃって、どうしようかな、、、」と思っているうちに、「そうだ、今まで比叡山やお堂をぐるぐる回ってたから、これからは比叡山じゃなくて、日本行けるとこをぐるっと回ろうかな」と思ったんだ。


それで、天台宗を開いた伝教大師さんが歩かれた足跡を歩こうと思って、京都御所から中山道を抜けて東京の寛永寺まで歩いていった。皇女和宮も、中山道のちょうど同じコースを通っていたから、「和宮の東下り」と思ったんだ。だから、伝教大師の足跡を訪ねて中山道を歩いていたんだけど、誰かと話してる時に「これは東下りだな」なんて言っちゃった。それで「東下り」と言われるようになったんだ。



「東下り」

平成二年九月十九日〜十月九日


京都御所を出発し、東京上野の寛永寺まで、天台宗、そして比叡山延暦寺の開祖である伝教大師が開いたといわられる。中山道を巡礼、途中一日は中山道を外れて、信濃国分寺、善光寺、常楽寺などに立ち寄る。東下りとしては二十一日間で約七百五十キロを歩く。



実際に、「東下り」が行われるまでには、半年の準備がかかった。最終目的地も皇居なった。この東下りについて、酒井雄哉阿闍梨の師匠である小林隆彰師の助言指導があり、詳しく、記してある。






その行程は、伝教大師がやはり籠山の修行を終えて、関東におもむかれた東山道(現在の中山道を基本にした行程)に出きるだけそって行脚することであった。


なぜ皇居か、という疑問も出るが、回峰行者が自己の修行とともに、日夜祈願を込めて諸仏諸菩薩、天神地祇(てんじんちぎ)を巡礼する主たる目的は、鎮護国家である。国を鎮めなければそこに住む人びとの幸せはないのであるから我が国土が風雨順次に、そして人心が安定するように神仏に祈願を込めるのである。日本人の代表が天皇であり、国家の象徴が天皇であると比叡山では考えてきたので天皇が安泰でなければ日本の平和は難しいとの立場から天皇の安泰を祈ってきたのである。だから、十二年間祈り続けてきた総仕上げとして、皇居の庭に立って鎮護国家を祈願したいという素朴な願いを実現したいと酒井阿闍梨は希望したのである。


平成二年の三月末日に、十二年籠山を満じてから六ヶ月間に諸般の準備をととのえた。道路の実地踏査、里程の計測、歩行時間と休憩所、宿泊所の交渉、交通事情などを詳細に調査して計画書を作った。山あり、町あり、そして多数の人びとにお加持をさせていただく予定地、宿泊所での法話、市役所などでの挨拶、土地の歴史や宗教事情などを丁寧に調べあげた。なづけて「東下り」、この作業があったからこそこの大計画は成功したのだと私は思う。この計画書の作成は、寸暇を縫うようにしてつくり上げてくれた飯室会によるものである。


回峰行者の姿をして歩くことには、先達会議で異議があった。特に、回峰行者の象徴とも言われる蓮華笠を頭にいただいて歩くことには賛成する者は少なかった。そのため、古びた饅頭笠を探して修理してみたりもしたが、どうしても回峰行者の姿で社会の人びとに接したい、蓮華笠をいただかねばお加持をすることはできない。という酒井阿闍梨の強い願いを実現させたいと法縁者である我々は腐心した。回峰行は比叡山だけでするものであること、行者姿で一般の道を歩くことは伝統を無視する、前例がない、神聖な行門を冒瀆するものだ、など厳しいご意見であった。すべてもっともな理由があった。が、酒井阿闍梨は必死に懇願した。そして、お加持をするときのみお笠を頭にいただく、ということで了解を得ることができたのである。


出峰 九月十八日午後一時、酒井阿闍梨は真新しい純白の浄衣を着け、飯室谷不動堂の前に立つ。出る人も送る人も感慨は無量である。松禅院から慈忍廟、飯室回峰の道に沿い、根本中堂に詣で、出発を薬師如来に報告し、比叡山満山三宝にしばしの別れを告げて雲母坂を下る。十六時半、赤山禅院へ、「赤山の御前さま」叡南覚照師がこの巡礼行に大賛成して下さったお陰で実現したことに感謝しつつ、最初の善根宿、荒神口の護浄院に着いた。


九月十九日、午前四時、台風接近で雨足がはやい。


京都御所清和院門には、同道する者、お加持をうける者、あわせて二百名ほとが阿闍梨のお発ちを待ち構える。全行程を随行するものが女性一人を含めて七名。随伴した者を含めると延人員千人にのぼる。(小林隆彰師)



東下りの時は、何度も嵐に見舞われた。ものすごい台風だったし、止まらないで歩いていったから応援に来てくれた人たちまで、ずぶずぶに濡れていた。僕は濡れること承知で、のこのこ歩いているからいいけど、「応援に来てくれた大勢の人たちは大変だろうな」と思ったな。


次回、嵐の中山道、、


続く、



【酒井雄哉語録】


人からすごいと思われなくたっていいんだよ


ぼくのところに来ると、みんな力が抜けちゃうみたい。会う前は、「なんだかすごい坊さんらしいぞ」なんて思って、ガチガチになってやってくるから。こないだ訪ねて来た人もね、お堂を出たとたん、「安心したわ」なんて言っていたよ。「したことになってんですよね」なんて、こっちも首をかしげたりしてな。


三十歳代も後半になってお寺の世界に入って、格式やらなんやら、お寺の嫌なところいっぱい見たからね。在家で大阪から通っていたころは、坊さんの前に行ったら、じーっと襟を正して座ってお話を聞いて、坊さんは坊さんらしいふるまいをする。お客にもランクがあって、上等のランクが来ると、ぼくなんか無視されちゃう。そういうの見てて嫌だったからねえ、自分が坊さんになったらやめちゃった。まあ山歩いているうちにそういうのがじゃまくさくなって来ちゃったからなんだけど。


だから信者のおばさんたちからは「阿闍梨さんらしくちゃんとしてください」って怒られちゃう。「ええんじゃ、おれはおれだ」なんて居直ったりして。こんなこといったら坊さんたちに怒られるけど、行をしたからすごいっていうことはないんだよ。何の行を満行しました。何やりましたっていうことばかり競っているんだったら、タイトルを取りっこしているようなもの。それは行じゃない。


いくらどんな行を何回やっても、何もつかむところがなかったら何の意味もないよな。それだったら、たった一日でもいい。深いところを味わいながら、丁寧に歩いてみる方がいいかもしれない。人が忘れていたことや、大切なことをちゃんと教えてくれるから。人からすごいと思われなくたって、いいんだよ。 (一日一生






参考文献


酒井雄哉大阿闍梨巡礼記

人の心は歩く早さがちょうどいい

酒井雄哉  著  PHP研究所


花咲け 人咲け 歩けなくても 心咲け

小林隆彰  著  紫翠会出版 


ただ自然に 比叡山千日回峰行

酒井雄哉画賛集

寺田みのる  画  小学館文庫