◇子連れの坊さん、勉強する、



(酒井雄哉大阿闍梨)


将来、住職になれるかどうかの保証も何もない四十の男が、食事の世話から掃除、洗濯、買物、子どもの遊び相手まで、ひたすら小僧になりきって働いた。それに学校も加わった。昼の疲れから、いつも夜八時頃にはぐうぐう寝ていた。ある夜、夜中に目がさめたら、書斎に明かりがついている。覗いてみると、小寺師が一生懸命勉強していた。次の日も次の日も、同じように勉強している姿は変わらない。


学校に行くようになって、酒井阿闍梨は、


「えらいことになったなぁ、とおもったんだな。勉強嫌いで小さいころから逃げて歩いていたのに‥‥‥。いまさら勉強でもないがなぁ、思ったよ。でも学校に行けば、いろいろ友だちもできるわけね。今のままだったら、年とってお山にあがっても、どこかのおっさんが得度しただけ、ということになるわな。いろいろ考えて、それじゃ勉強します、となったわけだよな。あんたは行より生きる道はないんだ、箱崎のおじいさんみたいな行の勉強も必要だよ、と言われてね。なるほどそうか、と気持ちが決まって勉強を始めたわけだ」



(叡山学院)


それに、師匠の小寺師が毎日勉強する姿を見て、


「さすがに、わしがいくら図々しくても、お師匠さんが勉強しているのに、小僧がぐうぐう寝ているわけにはいかない。そうっと書斎に入ってじっと見ていたら、これ整理しろ、ここだけちょっと写してこい、ということになったの」


まず、勉強する雰囲気を知った。自分でも少しずつ仏教の本や資料に目を通すようになった。小寺師学問には厳しかった。ふだんの生活は家庭的でこだわらないが、学問のことになると、徹底して人が変わったように、甘えを許さなかった。若い頃の酒井阿闍梨なら、この勉強に音をあげ、嫌気がさしていただろう。だが、その時の酒井阿闍梨は逆だった。


「人生で一番勉強をした」と振り返る。


夏休みになって、成績表をもらう日がきた。その前に、小寺師に呼ばれた。酒井阿闍梨は、これは点数が悪いので呼ばれたんだ。やっぱりおれはだめだ、と直観した。


「そんなことになるだろうと思って、夜逃げするつもりでいたんだ。風呂敷包みを用意しておいて。怒られたら、その晩、大阪へもう帰っちゃおうて思った」


小寺師は言った。


「お前、頭が悪くて、勉強できないなんて嘘だよ。ちゃんと八十点以上取ってるじゃないか」


思いがけない結果だった。



昭和42年に叡山学院本科に通う。本科に入る資格は「高等学校卒業者、または同等の学力を有する」となっており、その殆どが二十歳前後の若者である。地方の寺の二世たちが、僧侶になるための基礎教育を受けるために入学したものも多く、寄宿生活をして勉強一途に励んでいる。同期生は二十人くらいいた。酒井阿闍梨は二重三重のハンディキャップを背負いながら、そうした若者たちと机を並べた。


後の天台座主、山田恵諦師や森川宏映師ら錚々たる比叡山の学僧たちの指導を受けた。


「天台宗は天台宗」から始めた酒井阿闍梨は、昭和四十五年、叡山学院研究科に進むことになる。



(大津市坂本 比叡山延暦寺里坊群)



比叡山延暦寺一山の住職になって、生涯山に残るのには、仏教系の大学を卒業するか、叡山学院を卒業した後、三年間の本山交衆という制度によって籠山修行をしなければならない。もともとは、一山交衆といった。


たとえば、三塔十六谷のなかで無動寺谷の寺の小僧になる。この寺で論議の勉強をし、僧侶としての基本的な教えを受ける。これを谷交衆というが、三年後には院内交衆に進む。院内の院は、東塔、西塔、横川の三塔をさす。東塔の院内交衆に進むときは、東塔の住職全員の賛成を得なければならない。二年間を経て、いよいよ一山交衆に進むことになる。これは終生、比叡山の僧侶となる道であるから、延暦寺全体の住職によって組織された一山会議にかけて決定される。


さらに、新しくできた「本山交衆制度」では、三年間籠山を義務づけ、百日回峰を取り入れた。


その様々な資格条件の中に、「年齢は三十五歳まで」という一項があった。


時の酒井阿闍梨、「四十四歳」である。



続く、




参考文献


行道に生きる 比叡山千日回峰行者 酒井雄哉

島一春  著  佼成出版社


阿闍梨誕生 比叡山千日回峰行・ある行者の半生

和崎信哉 著  講談社


生き仏になった落ちこぼれ 酒井雄哉大阿闍梨の二千日回峰行

長尾三郎 著  講談社文庫