◇得 度 坊主になる、





弁天堂の輪番は「小林隆彰師」から「小寺文穎師」に代わった。酒井阿闍梨にとって新しい道が開けたのかもしれない。


昭和41年12月、比叡山は時折小雪が舞う寒い日が続いていた。京都の街は冬の冷え込みが厳しいが、比叡山の冬は京都よりも五、六度気温が低い。谷をわたる風は鋭い刃のように肌を刺す。





(無動寺弁天堂 浴酒  2018年) 引用 おごと温泉協会Facebook

 

その中で比叡山の無動寺谷・弁天堂では、一週間にわたる『浴酒』といわれる天台密教の修法・お勤めが行われていた。真冬の滝に打たれるのにも、真夜中の二時、朝の八時、夕方の四時と日に三度のお勤めをした。これに酒井阿闍梨も小寺師に連なった。小寺師が滝に打たれた後、酒井阿闍梨も滝の水を浴びた。火の気のない本堂で、小寺師といっしょにお勤めするのだった。「たぶん自分の知っている念仏やお経を全て唱えていたのでしょう」と小寺師は振り返る。


比叡山に登るようになって5年、覚えたお経がいくつあったのか。念仏、真言、知っているお経を一心不乱に唱える酒井阿闍梨の姿は、凄絶でさえあった。



『あなたのような方は初めてです。そんなに身を入れてお勤めなさる気なら、本格的に仏道にはいられてはいかがですか』


小寺師は半ば冗談のつもりで話した。


『ぜひやらせてください。先生のもとで出家させてください。お願いします』



平伏する酒井阿闍梨を見て、小寺師は驚いた。なみなみならぬものは感じていたが、即座に出家を希望するとは予想もしていなかったのだ。しかし自分が発したことを、いまさら覆すことはできない。


「お気持ちはわかりました」



小寺師は、小林師にこのことを伝えた。

納得した小林師、小林師にしてみれば、真剣な酒井阿闍梨の信仰心は知っていたけれど、僧侶にしようとする気は毛頭なかった。いくら信仰心が篤いといっても、僧侶になることは根底から次元が異なる。しかも酒井阿闍梨は、社会の裏表を熟知している中年である。出家した後に、やっぱり娑婆のほうがよかったと後悔するようなことにでもなれば、恥の上塗りになる。軽々しく得度させてはならない、と小林師はかねてから思っていたのだった。


しかし、五年間比叡山に通いつめてきた酒井阿闍梨が、本気で出家を望んでいることは、もはや動かし難いものとして、小林師の眼に映じていた。あの酒井ならば躊躇うことは断じてない、と小林師は信じていた。


酒井阿闍梨は小寺師、小林師の言葉も聞き、涙があふれそうになった。喜びと感動で胸がつまった。小林先生もおれのことをずっと見守って下さったのた。ただ深々と感謝の首(こうべ)を垂れていた。在家の恩愛を断ち切ることに今はもう何の未練もなかった。その覚悟はできていた。親や兄弟に一言も告げることなく、出家得度の日を迎えた。


天台宗の僧となる人は、一年に一回、比叡山の浄土院に集まり、天台座主を回戒師として得度を受ける。


(比叡山延暦寺 得度式 2018年)


得度とは、教化を蒙って生死の苦海を渡り、涅槃の彼岸に至ることであり、剃髪出家することである。戒師ては戒を授ける師僧のことで、得度を受ける人がもっとも尊敬し、信頼している僧が戒師をつとめる。



比叡山に朝から粉雪が舞う、昭和四十年十二月十七日、『酒井忠雄』は小林隆彰師を戒師として得度し、天台宗の僧『酒井雄哉』として正式に入籍された。三十九歳の冬である。


小寺文穎師が頭を剃った。


◇その頭は、ところどころでこぼこがあり、人生の哀歌、愛、憎しみを体験してきた頭であった。頭を剃られる酒井阿闍梨は小刻みに震えていた。折からの寒さのせいか、激しく

遥かな仏道への門出の感動のゆえか、頭を剃り終わって青白く光る頭になるまで、酒井阿闍梨は震えて続けていた◇



続く、




参考文献


生き仏になった落ちこぼれ 酒井雄哉大阿闍梨の二千日回峰行

長尾三郎 著  講談社文庫


行道に生きる 比叡山千日回峰行者 酒井雄哉

島一春  著  佼成出版社


阿闍梨誕生 比叡山千日回峰行・ある行者の半生

和崎信哉 著  講談社