権力を欲する宗教と政治、その起源●●ソシオパス・暴力・物語・世界の局所に宿るガン細胞 | ユマケン's take

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デビュー作オンリー作家による政治・文化エッセイ。マスコミの盲点を突き、批判を中心にしながらも
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 最近話題の”宗教と政治”について考えたい。一体これらがどのように生まれ、根本的に何が同じで何が違うのか、そしてなぜ未だにウィンウィン関係であり続けているのか。

 キッカケは最近の統一教会への徹底的な追及で報道番組として一躍名を上げた『ミヤネ屋』だった。この日は宗教2世についての特集で、統一教会の異常さをあげつらねながら、2世信者を救う方法について論じていた。

 

しかしそれは、現役信者には痛くもかゆくもない内容だろう。

 

 教義が人生を決める異常さを指摘しても信者にとっては神の意思に従うことが善であり、個人の自由意思はサタンなのだ。

 教義に根拠や意味がないと指摘しても、そもそも信仰とは神秘主義に基づくものであり、科学にだけ偏った俗世間こそが異常なのだと反論するだろう。

 これに反論しようとすれば、宗教自体への批判もはらむ事になるので、テレビではなかなかできないだろう。

 

 しかし、実際それは人類を破滅に追いやってきた宗教と政治のメインストリームへの批判である。つまり、宗教と政治自体を否定するものではない。僕がここでこれから展開するのは、まさにそういう批判である。

 



1:押し付けられた物語




 ありきたりな結論から書くと、宗教と政治は共に権力欲を起源にしている。

 

 富や特権を独り占めしたい者、または少数の人間で独占したいと思う者――多くは精神弱者であるソシオパス――が作った共同体である。

 もちろんそれは大勢の人から反発を買うアンフェアな体制なので、押さえ込む力がいる。宗教と政治はそれぞれ違った形で暴力を行使する。そしてそれと共に、都合のいい物語を提供して大勢を良き場所に導いているかのように見せかける。

 

 

ごう慢な強欲に基づいた、

暴力と物語が支える絶対主義体制。

この点で政治と宗教は本質的に同じものだ。

 

 統一教会と自民党のように、宗教と政治がいつの時代も仲がいいのは、このような同じ権力欲を共有しているからだ。

 

 

 政治が行う暴力はそのまま力・フォースを使う。これは大昔の専制国家の話ではない。現在、民主国家の日本でも、税制に反したときにその秘めた暴力性は表に出てくる。

 

 もしあなたが固定資産税を払わなければ、いずれ税務署の職員が自宅に取り立てに来るだろう。それでも言うことを聞かなければ彼らは警察を伴って家を差し押さえに来るだろう。今も国家はこのような暴力で成り立っている。

 宗教もまたそのままの暴力も使うが、そのメインは追放になる。宗教はいつの時代も俗世間とは相容れない世界観を持つがゆえに、追放は死を突きつけるのにも等しい懲罰となる。統一教会の宗教2世が信仰を断てない最たる理由も、家族や親族から絶縁される恐怖にある。

 

 一方で、宗教も政治も

暴力的なその本性を隠すために

物語を建前として掲げている。

 

 

 どちらも都合のいい物語を作り、暴力をちらつかせて大勢に信じ込ませる。これは実質的にカルト国家だった大日本帝国時代の日本にも重なる。

 

 半藤一利著『昭和史』によれば、第二次世界大戦後、昭和天皇が人間宣言をしたとき、多くの国民は何もおどろなかったのだそうだ。
 
 なぜなら教育勅語などによって広められた天皇が神の一族だという話を誰も信じていなかったからだ。多くの人は憲兵などに逮捕されないために、それを信じたフリをしていただけだったのだ。

 

 自民党は55年体制以降、日本国民に資本主義こそが人を幸福に導くと説いてきた。だが今、多くの人はその物語がウソだったと気づきながらも、それを信じたフリをしなければならない。

 政治や宗教が描く建前としての物語はすぐに嘘だと見破ることができる。しかし多くの人はそれを信じなければ生きていけないため、それに賛同せざるを得なくなる。

 

 この暴力によって生じる庶民の自己欺まんは、オーウェルの傑作小説『1984』で独裁国家が統制の手段として使う”二重思考”という概念にも通じている。



2:苦しみと欲望のストーリー




 宗教と政治の大きな違いは、人々を統制する物語の性質である。宗教の場合は、人の苦しみが物語の中核にある。ルトガー・ブレグマン著『Human Kind』には、宗教の登場について説得力のある指摘がある。

 宗教は人類が狩猟採集から農耕定住に移行したときに生じた。農耕になると集団感染などそれまでになかった害が生まれ、人はより苦しむようになる。そこで宗教はその苦しみを人類の原罪とみなす物語を作り、それによって大勢の人を魅了した。

 大体そういう指摘だったが、非常に説得力がある。実際は農耕や格差がもたらした苦しみでも、それを庶民のせいにすれば彼らの怒りをコントロールすることができる。

 

 それは現在多くの資本主義国家が取る格差による弊害を自己責任に転嫁するやり方にも共通している。その意味で、宗教は国家にとってもありがたいものなのだ。

 

 

つまり、キリスト教に代表される

”人類が生まれながらに罪深い”といった

苦しみを中核にした神話は

ご都合ストーリーに過ぎない。

 

それは単に権力者が大勢の庶民の不満の矛先を

宗教や政治にではなく彼ら自身に向けさせるために

でっちあげただけのものだ。

 

 

 ジョン・レノンは『GOD』という歌の中で、神は人の苦しさを測る作り物に過ぎないと歌ったが、それは宗教自体の本質も突いている。

 

 宗教が苦しみの物語を作ったのに対し、政治は欲望や快楽の物語を作り出した。資本主義に従っていれば幸福になれるという話であり、今でいえば宝くじがいい代表例だ。

 しかし宗教も政治も共に都合のいい物語をベースにしている限り、いずれ破綻する。矛盾や不合理が出てきて大勢の人から不満を買うのだ。

 

 

 そこで両者は共に絶対主義に逃げ込む。絶対主義とは議論の余地さえない許さないもの、そうと決まっているのだから絶対に従えというものだ。

 宗教は神秘主義ベースの教義・ドグマを用い、神の名の下で都合よく批判をかわす。

 

 政治は科学主義ベースの法律、または自民党議員によく見られるよう、事をムダに複雑化させるなどの弁解戦術を用いて批判をかわす。

 

 



3:世界の中心にいるソシオパス



 

 宗教と政治を始めた権力欲に飢えたものとは一体何なのか。ルトガー・ブレグマン著『Human Kind』からも読み取れるが、それはソシオパス・精神弱者に違いない。

 

 彼らは大勢の上に立って誰よりも多くを手にできる権力者になりたいと思う。 一方で普通の人は、富を独占するよりも大勢で公平に分けることを選ぶものだ。

 

 ただ特に宗教の場合、創始者は善人であった可能性が高い。その権力が代々長期化する中で腐敗した人間が出てきたと見ていいだろう。その宗教的な腐敗の過程は、リチャード・バックの小説かもめのジョナサンの中でも暗示的に描写されている。

 ソシオパスには1つに執着する偏執狂的な才能があるため、いつの時代も成功者になりやすい。現代でもスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった大成功者は、才能がある反面、共感力の欠如などの人格障害を持っていたことでも広く知られている。

 

 コミュ力に欠けた彼らは成功の果実を人に分け与えず独占しようとして格差を生み出す。そこでその階層を固定化するために宗教や政治といった絶対主義体制が生まれた。

 

 

宗教や政治が中心になった国家は

上層部ほど固定化されるため、

ソシオパスが近親交配をすることになる。

 

またソシオパス的性質は人に転移するため

新しい人たちが加わっても染められてしまう。

それによってエリート層ではいつまでも

精神弱者たちが循環し続けることになる。

 

 

 世の中や人類の歴史がどんどん酷くなっている一番の理由を僕はそこに見る。ジョン・レノンもかつて多くの政治家と議論を重ねる中で、彼らの多くがパラノイア・偏執狂だと見抜き、歌の中でも繰り返しそう歌ってきた。

 

 

だが、宗教も政治も人数で言えば

国の中のごく一部に過ぎない。

中国やロシアも異常なのは政権中枢だけで

他の大多数の国民は健全である。

 

ごく1部の異常組織によって

全体が犯されるという意味で、

宗教や政治は人類のガンだと言える。

 

 

 ガンを手術や治療で切除するには無数の健康な細胞や臓器も犠牲にしなければならない。日本の先の大戦では、アメリカが狂気に陥った大日本帝国を倒すために多くの関係のない日本市民をも巻き添えにせざるをえなくなった。

 

 オウムというカルト宗教は消滅する前に大勢の市民を巻き添えにし、今ロシアも帝国崩壊を前にしてウクライナと心中しようとしている。これらもすべて宗教や政治がガンであるためだ。




4:ガンの切除に必要な大いなる犠牲

 



 

 ブログ序文には宗教信者たちにありがちな自己正当化を書いた。彼らは、個人の自由意思よりも神の意思の方が偉大だと言う。だが、その神の意思とは、単に強欲な教祖が信者を統率するためにでっちあげた物語に過ぎない。

 彼らは意味で成り立つ科学主義に偏重した世界は間違っていると言う。確かにそうだ。この世には筋の通らない不条理や奇跡のような偶然だって起こりうる。

 

 

しかし多くの場合、宗教信者は神秘主義を

自身の破綻した物語をつくろうために利用している。

 

彼らは基本的に合理性に従っている。

なぜなら信者が好んで用いる物語は

カルマに代表されるよう

分かりやすく筋が通っているのだ。

 

彼らは単に物語が理論的に破綻したときに逃げ込む場所

として神秘主義を利用しているに過ぎない。

 

 

 これは根本的な宗教批判でもあるが、僕は宗教全体を否定しようとはしていない。宗教には真の神秘主義に基づいた信仰もある。善人は天国に行く、欲を持てば地獄に行くといった分かりやすい物語がない真にスピリチュアルな世界だ。

 

 また政治にしても、今も南米など幾つかの地方都市では市長が統治権を市民に与えたような真の民主主義体制が整っている場合もある。

 

 

冒頭で断ったよう、ここまで書いてきたのは人類史を破滅へと導いてきた政治と宗教のメインストリームについてである。

 

 

 宗教と政治はやり方が違うものの根本的には同一だ。だからこそ未だに日本でも統一教会を始めとした各種のカルト宗教と自民党が長年に渡ってウィンウィンの独裁体制を敷いてきたのだ。

 繰り返すが、宗教や政治というものはガンである。世界中アチコチにできてしまった以上、人類がこの病から回復するには大変な労力を要するだろう。地球レベルの壮大な犠牲と時間が必要になるのだとすれば、人類は滅びるしかないのかもしれない。■