(書評) アイ・アム・デビッド | 軽井沢で美穂の時つむぎ

(書評) アイ・アム・デビッド



著者: アネ・ホルム, 雨海 弘美
タイトル: アイ・アム・デビッド

人が人としている時、生きてきた環境や教育がどんなに大事か、それと同時に環境や教育に左右されない血や魂・・・
主人公のデビッドは第二次世界大戦後、12歳迄ブルガリアの収容所の中だけで生かされてきた。
自分以外の子供は見たことなく、知っているのは教育係のようなフランス人の友人から聞く事だけ。
収容所には政治的なことから沢山の才能ある人たちが地獄のような日々を送っていた。
そんな収容所から脱出する機会が訪れる。
持ち物は水の入った瓶とコンパスと折りたたみナイフと石鹸だけ。
それだけの持ち物だけでデビッドはブルガリアからイタリア、スイス、ドイツを通って目的地のデンマークを目指す。

旅の途中、小川や池を見つけてはデビッドは身体や洋服を清潔に洗った。
ボロは着ててもいつも清潔を心がけるデビッドの潔癖さが彼のたった12歳の彼の生きざまそのもののようだ。

デビッドは聡明な子だった。
収容所の暮ししか知らないデビッドは本能から危険と安全を嗅ぎ分け目的地に向って歩き続ける。
収容所で暮らしたメリットは言葉。イタリア語、フランス語、英語、その他を理解し話せた。
日本でしか暮らした事のない私は国境がいくつも隣接し、多言語を操るだけでも信じられない。
一昨年から学び直し、遅々として進まない私の英語学習が恥かしい。

旅の途中、無彩色の収容所しか知らないデビッドは海の青さ、花の色などの色彩の美しさを知る。
音楽や活字、本を知る。
食べるものもまま鳴らない道中で、デビッドは貪欲に知識をつけていく。
それは、人は生まれながらに何かを学びたい動物なのだと思わせるようだ・・
彼の貪欲な向学心はスポンジのように知識を吸収していく。

宿無しで浮浪者のようなデビッドだったがヨハンから習った流暢で丁寧なフランス語や神父さんから習ったイタリア語を話す。
それが逆に奇異となって人々に移る。
でもデビッドは思うのだ

宿無しだって、きちんとしたイタリア語を話していけないわけはない。言葉づかいは持っているお金やものではなく、その人の考え方を表すのだから。

収容所の生活で大切なヨハンを失って以来、人は疑うことから始まり、他人に関心を持つことを封じ込めて生きてきたデビッド。
それが旅の途中に知り合った”良い人たち”から愛を知る。

この世に愛があると知ってしまった今、ほかの子とはちがう、逃亡中の男の子は誰とも絆を結べないことを知ってしまった今はもう、前のようには生きられません。

そしてデビッドは葛藤し、最終目的地のデンマークを目指す事を決断する・・・

これは児童書として書かれた、世界中の沢山の大人や子供達に読まれている。
日本では2/19から上映される。
東京は新宿のTOKYU MILANO.
映画は原作と少し内容が変えられているそうだ。
来月、私はきっと劇場で観るだろう。
しかし、こういう映画がどうして一ヶ所でしか上映されないのだろう。
良い映画はいつもそうな気がする・・・

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ネタバレを全く気にしない私はよくこうした観方(本→映画)をする。