想い出がなければ成立しない関係。 | イタリアでモロッコごはん

イタリアでモロッコごはん

イタリア在住 リツコがモロッコ人と結婚を決めた途端、介護同居生活が始まり今に至るドタバタと、美味しいモロッコ&地中海料理について語ります♪

本日は同居している義姉の
複雑怪奇な性格の分析をしていこうと思う。


何故なら、私が彼女の性格の一部分をブログに書くと
とても偏った印象を読者様に与えてしまうし
かと言って、1記事で彼女がどういう人か説明しようとしても、かなり難しい。



ただし、ここに描いた彼女は
私が出会った時点から、それ以降の義姉の姿で
病気以前の彼女の姿を私は知らない。







私が夫と結婚する前
ソーシャルサービスの人から電話を受け
夫がイタリアにいる唯一の親戚だから
彼女の面倒を見てくれと言われて

同居し始まった時
義姉は脳梗塞の末、半身不随で
仕事と友達を失って鬱状態だった。



ずっと窓の外の雨戸は閉めたまま
薄暗い部屋から出てこないでいて
時々私にヤジを飛ばしてきていた。



夫も2軒分の家賃を払えれば
同居なんかしなかったのだけれど
駆け出しの私達は
そのまま義姉の家に入ってしか
経済的に助けることは無理だった。


そして、私は既にモロッコで
保育園も老人ホームも無い
愛に溢れた家族相互援助体制を見てしまっていたので
夫が義姉の面倒を「当たり前に」みる気満々なのは十分承知だった。


ここで悪女になって
「なんで老人保護施設に入れない?」とか
「何故モロッコに送り返さない??」とか言うと
せっかく決心した結婚も危ぶまれた。



私達が家に入った時は
義姉が生きているか確認するための
無線の機械が寝室に置いてあり
夜8時に鳴るアラームを止めることで
ソーシャルサービスが遠隔で生存確認していた。



お昼には、まっずいお弁当を届けてくれる
配達サービスが来ていた。
これで飢え死にからは免れるのか??

私達が来たことで
この2つのサービスを取り消した。


この家に入って間もなく私達は入籍し
ささやかな結婚パーティーを開いた。
私達二人はとても幸せなのには変わりなかったけれど

環境的には最悪な新婚生活の始まりだった。


こんなに悲惨な新婚生活の始まりってあるの??
深く考える余裕もなく運命に突き動かされたカンジで同居は既に始まっていた。





次第に義姉の半身不随は回復していき
杖を付いて歩けるようになった。

それでも鬱のまま
薄暗い部屋に1日中閉じ籠っていて
私に挨拶ができる状態では無かった。


挨拶のお返事が出来ない人とのコミュニケーション方法はこちら




数年後、TVで指輪物語を見ていたら
コレが出てきた。




ゴラムさん。

彼は長年エゴ丸出しで生きていて
人目も気にせず
数秒おきにコロコロ色んな性格を露出し
見ていると面白い。
薄暗く湿ったところにいるのがお気に入り☆


彼を見て、なんて義姉に似ているんだろう!
と思った。(決して姿カタチが似ているのではありません)



映画で他人事として見るのは面白いのたけど
同じ屋根の下で、会うたびに違う人格に変化する義姉に
最初の3年間は本気で理解に苦しんだ。








悪人バージョン。


(写真は人格のイメージです)

お前らが私の家に来てから
私の友人が誰も訪れなくなった!

彼女にとって全て悪い出来事は私のせいにされた。

ソーシャルサービスが助けを求めてきて
救援に入ったというのに
孤独を愛する義姉は私達と
言い合いになる度に「私の家から出ていけ!」
と言う。

ていうか、こちらの本音を言わせてもらうとね、
新婚生活くらい二人っきりで過ごしたかったんですけど!


病気になっても好き勝手独りで生きたい人は
一生好き勝手出来るだけの貯金を、倒れる前までにしておくこと。






善人バージョン


ある日私が泣いていると

どうした?日本が恋しいのか??

と言って1000ユーロくれようとした。

人の涙に弱く
泣いている人を見るとお金をあげようとする。


この根拠の無い善人っぷりを悪用する
モロッコ人のズルい友人達は
お金が必要な時に義姉の前で泣いては
お金をせびって行ったらしい。


彼女が病気で倒れてから
来なくなった大勢のお友達とは
義姉を都合よく利用していた人達で

今でも訪れてくれる数少ない人が
真の友達だったと言える。







モロッコから電話がくると
モロッコの家族の問題を延々聞かされ
それで頭がいっぱいになると
私に無秩序に当たってくる。


とばっちりを喰らった私が
正当な抗議をすると
数時間後に自分の間違いにハッと気付き



さっきはゴメンよ!
と謝ってくる、反省バージョン。

謝ってこないよりはマシだが
反省が早い分、いつも同じ過ちを繰り返す。

以前は反省も出来たが
最近は犠牲者根性の方が強く
反省は難しくなってきた模様。





人の涙には弱くて
無条件にお金をあげてしまうのに


涙が伴わない普段のシチュエーションでは
基本的に人を信用しない。

常に疑心暗鬼バージョン。

夫がいくらアドバイスをしても
長年全く聞き入れてくれず。
馬の耳に念仏状態。



正常な解釈は不可能で、
他人からのアドバイスは

「義姉フィルター」を一度通ることにより

全てネガティブに解釈され
アイツはこんな事を私に言ってきた!と
フィルター通過後の独自解釈バージョンを
友人親戚に言い触らすので

もはや、アドバイス禁止。






基本的に揚げ物ラブハート
魚フライ バージョン。

猛烈に揚げ物を食べる。
現在御年76歳でも食欲は衰えず。

特に魚フライが好きで
足を切断する前は
週一回は2時間くらいかけて
モロッコ風魚フライを山盛り揚げていた。

貪欲に、食べたい物だけを食べ続けて
生活習慣病の悪化を辿る人生。


今私に同じ事を求められても
習い事のお迎えなどがあって
2時間揚げ物にかけている時間はなく
我が家での魚フライの食卓登場率は低く
きっと、相当御不満な様子。








子供と無邪気に遊べる
子供大好きバージョン。

私と義姉との関係は永遠に良好になる見込みはなくても
義姉はもともと子供っぽく、
子供と一緒にいるのが好き。

私と夫は、子供達の前では
一切義姉の悪口を言わなかったので

子供達は無邪気に義姉を愛し
義姉は孫のように私達の子供を可愛がり
子供達は義姉の部屋に入り浸って遊んで
彼らは良好な関係を築くことができた。




私は妊娠6ヶ月で大学生になり
長女が生まれた後も勉強や研修を続けられたのは
義姉が子供の面倒を見てくれたり
夕飯に魚フライを揚げていてくれたからである。


私はこの時の恩義があってこそ
今でも義姉の失態に目をつぶり
ずっと同居を続けられている。



人生健康で全て順調な時もあれば
お金も健康も一気に失う時もある。


義姉は全てを失ったと同時に
心の病も悪化したから
私達に心から感謝している様子など見たことはない。



残念ながら、私は若かりし頃の
義姉の本来の姿を見ていない。
夫が言うには、病気で倒れる前は
全然違う、もっともっと魅力的な人だったらしい。


今ではその魅力は全て何処かへ流してしまい
エゴの直球を私に投げつけ
傷付くのが嫌な私はそれをかわしながら生きているけれど

そのエゴは他の誰もが持ち合わせていて
ベールに包みながらも
親や夫や子供に向かってソフトに投げ付けているものだと思う。


モロッコ人は
赤ちゃんや幼児が大騒ぎしても
「子供だから」と寛大で

だんだん赤ちゃん化していく老人達にも
「もうお婆さんだから」と、
今までお世話してくれた老人へ感謝の意と共に
自宅で世話をしている。



私は義姉が半身不随から復活し
一時だけ奇跡的に元気だった
あの長女が生まれた頃の義姉がハイ(躁)だった数年を
義姉に感謝しながら過ごせて良かったと思っている。


人間同士、心から感謝したり愛したりした
共通の想い出が無いことには
本当に辛く苦しい時期を一緒に乗り越えられない。


同居が始まった当初の私は
義姉との共通の想い出なんて何も無かったので
毎日、なんで私が??
と日々同居の辛さを嘆いていた。


産後の、どうしても助けが必要な時に
当たり前のように助けてもらってから
色々な事に耐えられるようになった。


やっと私達の間に共通の想い出が出来たから。


繋がっているのは
想い出のおかげ。


夫があの時、義姉を助ける気満々だったのも解る。
何故なら義姉は、モロッコにいる自分の息子より
弟である私の夫のことを可愛がり、信用して生きてきたから。


二人の間には、私には計り知れないくらいの
沢山の想い出が溢れかえっていたのだから。


色んな人から、なんで老人介護施設に送らないの?と聞かれる。

私は、想い出の話をすると長くなるから
「モロッコでは施設に入れるなんてあり得ないんです。」
と簡単に答えることにしている。