とてもとてもきれいで。
誰より何より大切にしたかったから。
『私の歌には、ハートがないそうです』
トキヤのその言葉の意味を理解するまでに、音也はしばらく時間がかかってしまった。
『へ?』
理解しても、なぜそんなことをトキヤが言うのか分からなくて、結局間抜けた返事しか出来なかった。
早乙女学園に入学してすぐの、レコーディングテストと称した最初の作詞・作曲及び歌唱試験以来ずっと、トキヤは日向先生にそう言われ続けていたのだと。
なぜ突然トキヤがAクラスへ変更になったのかを問うた時、そう言った。
それも、音也には納得出来なかった。
『だって、トキヤ、上手いのに』
授業中や他の場所では知らないけれど、それでも、寮では同室で。
だから、音の確認をするためか口ずさむ程度のひそやかな音量での課題曲の練習とか、本当に本当に歌が好きなのだろう、おそらく本人は無意識のうちの、料理をしている時や風呂に入っている時に漏れ聞こえる小さな鼻歌とか、音也はずっと聞いていた。
いや、『聴いて』いた。
誰よりも素のトキヤに近いところにいたのは、他の誰でもない、音也だ。
その自負が、音也にはある。
言葉としては上手いとかすごいとかしか言えない自分に腹は立つが、それは楽譜通りに歌えるとか声が伸びやかに出ているとかそんな技術面だけではなく、ちゃんとトキヤの歌は音也の心に届く歌なのだ。
なのに、レコーディング中のトキヤの歌は、なぜかちっとも音也の心に響かない。
まるでゲームの中のキャラクターのように、コンピュータが譜面通りに音を出しているような。
おそらくはそれが『ハートがない』ことなのかも知れないが、けれど、トキヤの本当を知っている音也には、それが納得いかないのだ。
『ちゃんと、歌えるのに』
『ねえ、トキヤ』
出された課題曲を小さく歌っているトキヤに、音也は声をかけた。
同じクラスなのだ、当然音也にも同じ課題曲があるのだが、トキヤの歌を聞いてしまうとそれ以上に上手く歌うことなんて出来なくて、歯痒くなる。
『なんですか』
そんな葛藤を知らないのか、知っていてもきっと態度は変わらないだろうけど、歌だけではなくハートがないトキヤの声に、音也は少しだけ、さみしくなった。
『終わりに、出来ないの?』
確信はなかった。
でも、同じ顔、同じ声、不定期な上にハードスケジュールなバイト、生番組の時には絶対に園内にいないトキヤ。
『HAYATOを、やめることって、出来ないの?』
それは、音也にとっては賭けだった。
双子の兄弟であると説明され、はじめはそれで音也も納得していた。
正反対の性格であるからこそ、特に真面目なトキヤは兄の軽く見える言動が気に入らないのだと。
HAYATOの話題になると、とにかく否定的なことしか言わないトキヤに、HAYATOに近い印象の自分まで否定されているようで、音也は悲しかったということもある。
でも。
符号が合ってしまえば、すべてがすとんと心の中に落ちてくる。
『HAYATO』は、トキヤだと。
そして、そう聞いた途端に固まってしまった、ある意味とても素直なトキヤの反応が、音也の確信を裏付けることになってしまった。
「この間ね、同じ傘、見たんだ」
雨の日の、けれど人波が滞ることのない舗道で、偶然に。
衣装は『HAYATO』のまま、けれど、その表情や雰囲気は紛れもなく『トキヤ』で。
そう、きっとトキヤ本人ですら気付かないうちに、でも絶対に心は『演技しなくてもいい自分』を探していたはずなのだ。
あの日、ズブ濡れになりながらも、立ち止まることなく歩みを進めていたトキヤは、きっと雨が降っていたこととか、すぐ後ろに音也がいたことなんて、気付いてはいなかったのだろう。
それでも。
『もう、"HAYATO"はいません』
なるべく不自然にならないほどの時間をあけて寮の部屋に戻った音也に、言い切ったトキヤは、なにかを吹っ切った笑顔を向けてくれていた。
その影に、七海の存在があったことは明白だけれど。
それでも、トキヤにとってはかなりキツい終わりだったと、それくらいは音也にも分かる。
『HAYATO』を、愛していなかったはずはないのだ。
望む理想の姿ではなくても、それでも老若男女広範囲に渡り人気のあったキャラクターなのだ。
デビューするのがその当人であっても、対外的には双子の兄弟であり、兄の七光りを狙っているのかと当たりがキツくなることさえも、当然のことと受け入れて。
「トキヤが”HAYATO”だった時に、使ってたのと同じやつ」
トキヤの傘は、どこにでもありそうな、濃い色の無地のもの。
けれど、TVの中の生中継で、HAYATOが使っていたものは、明るい彼に似合うポップな色と模様のもの。
「なんかさ、嬉しかったよ」
大好きなのはトキヤだけれど、でも『HAYATO』はそのトキヤの紛れもなく一部分であり。
だから、ほんの欠片でも失くしてしまうのはもったいなくて、もしかしたらその傘の持ち主はHAYATOのファンで、きっと今でも好きでいてくれるんじゃないかなと思えて、だから嬉しくなったのだ。
トキヤにとっては、作り上げられた自分ではない誰かが一人歩きし、もう自身を見てくれる人はいないのではないかと、そんな明日さえ来ないのではないかと思うような、辛い日々の中にいたのだろうけれど。
それでも朝はちゃんと夜明けを、飽きもせずに連れてきた。
トキヤをトキヤだと認め、トキヤの歌を好きだと言ってくれる人はいた。
「どこにでもあるものですよ」
そんなふうに素っ気なく言うトキヤが、けれど照れているだけだと分かるから。
だから、一瞬一秒、すべてがスタートなのだと背中を押してあげられることが出来て、音也は幸せだったのだ。
「Sky 雨さえあがれば 街も人も みんなリズム変えて そう 新しい気持ちで歩く 何か探してる」
ふと思い浮かんだ歌詞を、ギターに乗せて口ずさむ。
いまだに作詞の仕方なんて分からないし、作曲なんてもってのほかだけれど、それでも音也の歌は、いつでも大好きな人のためのものだ。
「100年あとの愛まであげられたと思うから 眠れぬ君の夜には 支えにして それでいいのさ」
今はもういない、『もうひとり』のトキヤ。
はじめはファンとして、そしてトキヤの一部として、今もずっとちゃんと愛しているから、『トキヤ』が不安になる時には、愛されているという自信を持ってほしくて、音也は言葉を紡ぐ。
「Feel 動いてる 心の音が聞こえる も一度 誰かを愛せるさ」
今度は、トキヤとして。
「If 偶然にどこかで君に会えたら 恥じない 恋だけしていたいね」
…いつでも。
見つめた視線が、トキヤのそれに絡まる。
音也のギターに合わせ、トキヤが引き継いだ。
「Feel 溢れてる記憶が胸にあるなら それだけ 優しくなれるのさ」
思い出さえも大事にして抱きしめてくれる人がいるから、強く、真っ直ぐに未来を見つめることが出来る。
そうしてもいいのだと、さしのべられた手を、迷いなく掴んで。
「Love 想い出はたたんだ傘とおんなじ Rainy days 時々ひらけばいい」
…これから。
ひらいた傘の下に、太陽のような笑顔があるから、きっと、大丈夫。
とてもとてもきれいで。
誰より何より大切にしたかったから。
雨の日には傘を差し翳し、一緒に太陽を待とう。