「生きる」ということ | 私のイタリア時間

私のイタリア時間

イタリアに住みはじめて、20年もの月日が経ちました。
イタリアでの何気ない日々。流れる時間の中で起こる、ふとした出来事や思い。
このブログでは、そんな日常を1枚の写真と共に書き綴っています。





アーティチョーク。


青空市場で買ったアーティチョークを
水に浸けておく。
そのままにしておいたら、
今は新鮮な野菜も、
その瑞々しさは、無くなっていく。
こうしておいたら、暫く保つと期待して。



「生きる」ということについて、

ちょっと真剣に考えてみる。


多分、私たちは、

このありきたりな毎日に、そろそろ飽き始めていて、

それは大概、

「苦痛」というカタチに表現されているような気さえする。


でも、そこには、

ある、「前提」が隠されていて、

それは、

普通に「明日」があると思う事である。


多分、人は、

明日を

当たり前に、生きていけると思っている。


それは、

極々、普通の感情で、

あまりにも当たり前のことだから、

まさか、

「明日」が無くなるなんて

思いもしないし、思いたくもない。


今、

イタリアにいる多くの日本人が、

「どうか、家にいてください!」と

メッセージをうっているのには、

その当たり前の「明日」が

いとも簡単に奪われてしまっている人たちを

間近で、見聞きしているからである。


でも、

そのメッセージは、なかなか伝わらない。


人は、問題が遠くにある時には、

それを他人事だと思うもので、

それは、日本人に限ったことではなく

イタリア人もまた、同じである。


まさか、数ヶ月前に中国で起こっていたことが

それを超えるほどのところまでいくとは、

誰も思って無かったのだ。


「日本は、生ぬるいよ。」


移動制限が大きくかかり始めたイタリアから

日本にギリギリ帰ることができた友人は

そうメッセージをくれた。


平和ボケって、

人は言うのかもしれない。


でも、私とて、

明日はやってくる…って

普通に思ってたのだから

それを言うのだとしたら、

私も、

これを苦痛に思うイタリア人も

ある意味、

平和ボケしてた事になる。


「生きる」って事を思った時、

能動的な感じがして

個人の問題だと思いがちだけど

実は、

生きていくのに、

いろいろな人が関わっていることを

こういう状態になった時に初めて

思い知らされる。


家に居ながらも、

食べていけることの裏には、

こんな状況でもお店で働いてくれる人達がいて、

そのお店に商品を運んでくれる人たちもいる。

そのベースには、

それらを生産してくれる人たちが

もちろんだけど、沢山いる。

リスクを負って、

働いてくれる人たちがいるから

私たちは、食べていく事ができるわけだ。


ただ単に食べることだけでも、

モノ凄い恩恵を被っている。


そうすると、

「生きる」つもりでいて、

「生かされている」事に気づく。


お陰様な文化な訳だ。


その、自分を生かしてくれる、

多くの知らない人たちに


自分が出来ることは何か???


と、問うのであれば

それは、

自分自身が健康を保つこと、

そして

周りへのリスクを軽減すること


亡くなった多くの被害者たちを報いる唯一のことは、

同情する事ではなく、

少しでも多くの人が

健康でいる事なのでは…なんて、

思ったりするわけである。


何もできない…

のではなく、

「生きる」って事が大事なのだと思う。



⬇︎今日もありがとう!






最後までお付き合い、どうもありがとうございます。