NYで勤めていた小さなオフィスはとても家庭的だった。

時々、上司の母上(日系二世)から電話が入る。「先生は来客中で、いつ終わるかわからないのですが」と伝えると、では伝言をお願いしたいという。

 

「今日は仕事の帰りにお寿司を買って来てほしい。スーパーで売っているようなお寿司ではなく"本物のお寿司"を買って来てください、と伝えて頂けますか。息子はいつも安いのばかり買ってくるから」

 

「わかります、先生は倹約家ですから」と心の中で相槌を打つ。

 

初めてNYを訪れた1980年代半ば、NY在住の知人が連れて行ってくれたのは48丁目の五番街とマディソン街の間にある日本人経営の高級寿司店だった。日本人とアメリカ人のお客さんで大繁盛だった記憶がある。

 

NYに住み始めて数年経った90年代中頃、ミッドタウンのホテルの中にあるオフィスでパートの仕事を始めた。その時、NY生活の長い日本人の同僚がよく食べていたのが、近所にあったDaikichi-Sushiというチェーン店のパック入りのお寿司である。最初は少し抵抗があったが、食べてみるとランチには丁度よい量で、お値段はお手頃。

 

その後、お寿司屋さんがどんどん増えていった。日本人経営のお店の多くは高級で、私にはそうそうお気軽に行けるところではない。

 

そのうち、41丁目の図書館の近くにお寿司やお惣菜を販売するお店が開店した。店内で握ってもらって食べることが出来るし、パック入りもある。Daikichiよりも値段は高いが、それでもかなりリーズナブルである。

 

Dean & DeLucaのような高級食料品店や安価なスーパーマーケットでもお寿司が買えるようになった。

 

そしてNY生活が長くなるにつれ、私は日本人が経営する高級寿司店にこだわらなくなった。アメリカ人お勧めの安価なレストランのお寿司も喜んで食べに行った。

 

その日、母上からのメッセージを上司に伝えると、彼は笑いながら「そうか、マザーはそんなことを言っていたか。まあ、80歳を過ぎているし、元気なうちは好きなものを食べてもらおう」と、ミッドタウンにある高級寿司店で握ってもらい持ち帰ったのである。

 

数年前、母の7回忌で故郷へ帰った。地元で美味しいと評判のお寿司屋さんは満席で入れず、握りと巻物を折りに詰めてもらい滞在中のホテルの部屋で食べることにした。

 

折りの蓋を開けると寿司海苔の香りがぷ〜んと漂った。すっかり忘れていた良い香りに感激した。