どうして“男の子”というのは、ああなのだろう。

「もうボケちゃってさ。長くないな、あれは」と言っていた叔母の長男。

口は悪いけれども、母親を溺愛している。本人は否定するけれども、見ていれば隠れたその愛情はあからさまである。

 

施設へ行く前、従兄弟は叔母が私のことを覚えているか心配していた。覚えていなくてもいい、私はちょっと叔母に会いたいだけ。もし覚えていないようならすぐに帰ろうと思っていた。叔母が懸命に「この人、誰?」と頭を悩ますのは避けたかった。

 

私が叔母の入所している施設を訪れたその日に、ちょうど大きなイベントがあった。市内の幼稚園に通う子供たちの歌とダンス、高校生のブラスバンドの演奏があり、ホールにはたくさんのご馳走が用意されていた。

 

宴が始まる前、ホールのステージに向かい車椅子に座っている叔母の後ろ姿を指して「あんなに小さくなってしまったんだよ」と言う従兄弟。もともと小柄だった叔母であるが、腰が曲がり、筋肉が落ち、身体に触れる時には慎重にしないと壊れてしまいそうなほど華奢になっていた。

 

叔母の横へ行き「おばちゃん」と声をかけると、「まあ、夢かまぼろしか、本当? 本当に来てくれたの?」と喜んでくれる。話していくうちに「くみちゃんは元気?」と妹のことまで気遣ってくれる。「あなたたちのお母さんが亡くなって、あなたたちは行くところがなくなってしまって・・・」と、私たち姉妹を案じてくれる。

 

叔母はボケていない。確かに、長く話していれば会話がずれることもあるけれど、ある年齢を過ぎればよくあること、特別なことではないと思う。

 

叔母には3人の息子がいる。地元を離れて仕事をしていた長男は父親が亡くなってから家へ戻り、次男と三男は市内にそれぞれ家庭を持ち暮らしている。3人とも異なるやり方でとても親孝行である。

 

それでも「よそ様からもらってでも、借りてでも、女の子がほしかった」と、叔母は言う。「まだ、言ってるよ」と、笑いながらう叔母の手をさする。「女の子がいたらなあ」という言葉を初めて聞いたのは、私が中学生の頃、ふたりで一緒にデパートへ行った時である。

 

女の子の孫が二人いて、小さい頃にはたいそう可愛がっていたけれども、やはり自分の子供のようにはいかない。子供と孫は違うようである。

 

叔母の叶わぬ夢、可愛らしい夢、叔母は変わっていない、昔のまま愛らしい。