毎年この時期になると同じことを考える。「来年こそはお祭りに帰ろう」

しかし、もう何十年もお祭りの時期に帰省したことはない。

 

既に実家はないので帰省の時はビジネス・ホテルに滞在する。お祭りの時期、どこのホテルも値段が爆発的に値上がりしているのをみて驚く。シングルの部屋が普段の7~8倍の値段に跳ね上がっている。

 

各ホテルは毎年1月に祭りの期間の予約をネットで受け付ける。早い者勝ち方式である。

もちろん、何度もトライしたことはあるが、どういう訳かアクセスした時点で既に満室になっている。

 

親類も友人も「我が家に泊まってちょうだい」と言ってくれるが、その時期はどの家も遠方に住む家族が帰省するのを知っているし、お互いに気をつかう。大変有り難いお言葉だけれども、やはりホテルがいちばん落ち着く。

 

両親が健在だった頃、祭りの時でも、お正月でも、いつでも帰りたい時に実家へ戻れるというのは本当に貴重なことだったのだと思う。あたりまえだと思っていたことは、実はそうではないと気づくのはそれを失くしてからである。

 

祭りの様子をネットライブで見ることが出来る。街が賑わっている様子もまるでそこにいるかのように感じ、気持ちはざわつく。そしてまた「来年こそは」と思うのである。

 

吉田拓郎氏の「祭りのあと」という歌がある。中学の時に初めて聞いたこの曲は、いつも故郷の祭りの最終夜を思い出す。人がいなくなった通りに祭りのあとの残骸、痕跡を見つけると、寂しく、物悲しく、まだ8月で暑さが厳しいというのに、心はすっかり秋になる。

 

「故郷は遠きにありて想うもの」

 

その気持は、亡くなった人を想う気持ちと良く似ているかも知れない。生きていた頃、決して良いことばかりではなかったはず。また、今も生きていれば小さな諍いがあっただろう。でも亡くなってしまえば、良いところしか思い浮かばない。ちょっと心に苦いことは文字通り「ビター・スイーツ」な思い出となっており、それがまた何とも言えない感情である。

 

「祭りが始まったよ。もう街の中が大変!来年こそは帰ってきてよ!」と、今年もまた友人から連絡があった。「だって、ホテルが高いんだもの」「だから、うちに泊まればいいって言っているでしょう!」

 

毎年恒例、繰り返されるこの会話も私にとっては夏の風物詩のひとつである。