今年の始め、初詣と友人の厄除け祈祷の付き添いで門前仲町にある深川不動尊へ出かけた。靴を脱いで中へ入ると本堂に大勢の人が座っている場所がある。空いているところに座り、数人の僧侶の方々が行き来しているのを見ると何やら神妙な気分になる。私は厄年ではないけれども、皆さんと一緒に厄を払ってもらった。
その後、2階にある金色に輝く「みまもり不動尊」に手を合わせた。その像の前に「仏さまの声」と書かれた箱があり、そこにたくさん入っている小さく畳んだおみくじのような紙をひとつ選び取る。
小さく折りたたまれた薄紫色の紙をひらくと「慈しみ」と大きな文字で書いてあり、その下に「慈しみとは、誰もが持ち合わせている仏さまと同じ心のことです。静かに手を合わせ、心にお不動様を感じてみましょう」と小さな文字で書かれている。
この言葉が、私への「仏さまの声」。(全32種類の言葉があるとのこと)
「慈しみ」か、ちゃんと出来ているかどうかわからないけれども、普段からそうありたいと心がけて人と接している。いや、よく考えるとあんまり出来ていないなあ。でも、もっと、あっと驚くような衝撃的な言葉がほしかったなあと、とんでもない罰当たりなことを思いながらバッグにしまい込んだ。
厄除け祈祷をした友人の「仏さまの声」は「さようなら」だった。怖い程インパクトのある言葉である。厄が「さようなら」と消えて行った、素晴らしいお言葉であると友は喜んだ。
先日、何かのドラマを見ている時にふと「あっ、そうか!自分を慈しむということか!」と、突然あの時の「仏さまの声」を思い出した。
「慈しむ」とは、かわいがる。 いつくしむ。 大切にする。心のやさしさのこと。
自分を慈しむとは、自分自身に思いやりや優しさを向けることで、自分の強みや弱みも含めてありのままの自分を認めること。英語圏では「セルフ・コンパッション」と呼ばれているとのこと。(英:self-compassion)
友人を慈しむように自分を慈しむということだけれども、甘やかすということとは違うし、自分のことになるとなかなか難しい。
「自分を慈しむ」は、今年の課題のひとつになった。
バッグの中にしまい込んでいた「仏さまの言葉」、久々に手に取って読み返し、今更ながら有り難く思う。