1週間前に偶然見た日陰に咲く美しい桜。もう一度見たくてわくわくしながら西浅草へ向かった。この日も暖かかったが、前日は雨が降り夜は雪だった。
細い木に咲く桜の花びらは地面に散り、枝にのこっている花は豊かに咲いた後の余韻を寂しく残していた。蕾はひとつもない。天候が崩れる前に咲いてしまったのだろう。
また来年を楽しみに待つことにする。
数年前の3月、たまたま訪れた目黒川で素晴らしい桜を見て感動した。翌年、あの感動をもう一度味わいたくて中目黒まで行ったが、記憶にのこっていたイメージとはかなり違っていた。当然である、その年の気候、訪れた日、時間が異なるのだから。
NYのセントラルパークに咲く桜も圧倒されるほど美しい。濃いピンク色の花びら、地面に落ちた花びらはピンク色の柔らかい絨毯となる。満開の桜に心が躍った。翌年、何日も続けて公園へ行ったが、ついには前年と同じような景色を見ることが出来なかった。
心待ちにしている間、自分の頭の中で美しさが幾重にも膨らんでしまったのだろうか。
過大な期待をせず、悲観もせず、心に余裕を持っていれば、その時にいちばん美しいものを見ることが出来るのかも知れない。
去年と比べてどうのこうのなどというのは、私が自分自身に勝手に植え付けた先入観が邪魔しているに他ならない。
それにしても、それぞれの地で、あれほど美しい桜を見ることが出来たのは幸運である。
数日前に観た映画、黒澤明監督「生きる」。
市役所で市民課長を務める主人公は、長いあいだ喜怒哀楽に心が動くことのない生活を送ってきた。末期がんで余命いくばくもないと知った後に「自分にも出来ることがあるかも知れない」と、公園をつくることに奔走する。ふと夕焼けの空を見上げて「綺麗だなあ。しばらく夕焼けを見ることも忘れていた。でも、のんびりなんかしてられない。私には時間がない」とつぶやき、また公園をつくる為に忙しく走り回る。
「美しい!」と感じるのは、心が生きている証のひとつだと思う。