先日、久々に故郷の友人から連絡があった。

 

「数日前から雪が降り続いて凄いの!今日も朝から雪片付けをしていたら、あなたの事を思い出したのよ」

 

15年前、一人暮らしの母が入院し、私はNYと故郷を何度も往復する生活をしていた。特に冬に帰省することが多かった。それが11月であれ、私が駅に降り立った日は必ず雪だった。滞在中は猛吹雪や「この冬いちばんの大荒れ」とテレビで報道されるような日々だった。

 

「まだ11月なのに、雪降るの早くない?」

 

「降ると思ったよ。だってあなたが帰ってくるって言ったから」

 

不思議なことに、大宮に住む妹が母に会いに行く時はいつも雪は消えている。前の週に積もった雪がすっかり片付けられているのである。

 

「雪、降らなかったよ。とても良い天気だった」と、妹は笑う。

 

積もった雪で歩き難くなった道を横風に煽られ「はあ、はあ」言いながら歩いて母のもとへ通った。

 

バス停から母の入院先までは徒歩15分。ほぼ「ホワイトアウト」のような天候の日、視線の先にふたつのライトだけが霞んで見える。車が走ってくるのだ。そんな中を歩く日は普段の倍くらいの時間がかかる。

 

私はそれが少しも嫌ではなかったし辛くもなかった。何故か“楽をしてはいけない”という思いがあった。雪が降れば降るほど、風が吹けば吹くほど、ずっと親不孝をしてきたという申し訳ない気持ちが少し軽くなるような気がした。

 

そんな生活は約5年続いた。

 

友は言う。「あなたはいつも雪が降る日にやって来て、雪が降る中を歩いて帰った。本当によく降ったよね。雪が降る日、その中にあなたの姿が見えるのよ」

 

あの時の私を見守ってくれていた人がいたこと、そしていまも友の中にその時の私が存在していること、なんだかとても嬉しい気持ちになった。

 

友人の眼から見える私の姿を初めて想像してみた。

 

雪がこんこんと降る故郷の町を歩く私の姿が、どういうわけか”ほかほか”と温かく映る。