友人が2週間の旅に出るというので3鉢の観葉植物を預かったことがある。いずれも高さ30センチほどの小さなものだった。柔らかい繊細な葉、放おって置いて2〜3日に一度水をやれば良いというものではない。枯らしたくないから嫌だと断ったのだが、枯らしてもいいのでどうにかと懇願されて引き受けた。

 

しかし、預かってみると想像以上に気を使う。日中はベランダの日陰に置き、数時間は日光浴をさせ日が落ちてからは部屋の中にいれる。水をやりすぎてはいけない。友人から言われた通りに世話をした。

 

日に日に元気がなくなっていくような気がする。どうにか2週間はもってくれと祈るばかりである。

 

小学生の時の夏休み、朝顔の観察日記という宿題があった。私は一度も花を咲かせたことがない。水も毎日あげていたのに。私だけ悪い種にあたったのだろうか、と思わざるを得ない。

 

旅から帰ってきた友人に預かっていた観葉植物を返した時、声には出さなかったものの「ああ・・・」という小さな失望感が友人の瞳を曇らせたような気がした。

 

それ以来、もう絶対に植物は預からないことにしている。

 

昔出会った友人は築100年くらいのアパートに住んでいた。場所はマンハッタンのど真ん中、新しい商業施設が並ぶエリアだが古い建物も共存している。ギシギシ軋む暗い階段を上がり、重い木のドアを開けると小さな部屋が縦に3つ続いている。一つ目の部屋は通りに面して大きな窓がある。その隣には小さなキッチンと大きなバスタブがあり、いちばん奥にベッドがひとつ置いてある。古い映画を思い出させるような部屋、私は彼女の部屋が大好きだった。

 

通りに面した窓のある部屋には数え切れないほどの観葉植物が置いてあった。まるで小さな植物園のようである。どれも手入れが行き届き生き生きとしていた。

 

彼女自身も生命力が溢れ出ているような人だった。冬にはゴージャスな毛皮のコートを着て自転車に乗り職場を往復するような豪快な人だった。

 

「ねえ、可愛いでしょう」と様々なカタチの葉をつけた観葉植物にアルミの如雨露から水をあげていた彼女の姿が浮かぶ。枯れた葉があれば「ああ、ごめんね」と話しかけて葉を摘み取る。

 

そうか、私は「枯らしてはいけない」という義務だけでお世話をしていたが、“愛でる” “慈しむ”という気持ちがなかったような気がする。

 

そんなことを今頃になって思うのである。