あるドラマのシーン。

 

図書館にやってきた男性Aが棚から本を取り出し大きな長方形のテーブルの空いている席に座る。他にもいくつかの席が空いている。男性Aの座っている後ろをうろうろする男性B。そこへ常連らしい男性Cがやってきて男性Aに「そこは、男性Bの指定席なんですよ」と小声で耳打ちする。

 

「あっ、それは失礼しました」と男性Aは席を立ち上がり、後方でうろうろしていた男性Bがその席に

座り落ち着く。

 

マンハッタンに住んでいた時のこと。すぐ近所に日本人が経営する小さなレストラン・バーがあった。入口を入るとまず8〜9人が座れるバーカウンターが目に入る。この大きさが絶妙に心地よいものであった。少し暗い照明の落ち着いた雰囲気で、日が暮れる頃には常に2〜3人の常連客がいた。

 

そのバーを通り過ぎて奥のフロアーにレストランのテーブルがある。客のほとんどは近隣に住む常連客である。

 

ドアを開けて入ってくる客にシンガポール出身のバーテンダーが親しげに声をかける。彼は流暢な英語と日本語を話す。

 

バー・カウンターはL字型になっていて、2〜3席だけ壁を背にして座れる場所がある。そこがいちばん座り心地が良い。後ろを人が通らないからだ。そこにはいつも高齢のジョーという男性が座っていた。彼の指定席だった。

 

ある日、私は友人とふたりでそのバーへ行った。その日はジョーの姿がなかった。一度座ってみたかった席、友人と私はいつもジョーが座っている場所に座った。

 

バーもレストランも賑わってきた頃、いつもより遅い時間にジョーがやってきた。ジョーは空いている席に座りバーテンダーや隣のお客と話しをしている。席を代わった方がいいかなと頭をよぎったが、友人は上機嫌に飲んでいる。ジョーの方を見ると楽しくやっているようである。そのままにした。

 

その日の夜、ジョーはわりと早くに席を立ち帰り支度を始めた。窓から外を見ると雨が振り始めたようだった。ジョーは傘を持っていなかった。

 

私は友人にすぐに戻るといい、ジョーと一緒に店を出た。私達は1本の小さな傘に入り、ゆっくり歩いた。ジョーはゆっくりしか歩けない。

 

「ごめんなさい。あなたの席にすわってしまった」と片言の英語で言う。

 

「No, No, it’s OK! あそこはみんなの席だよ」と笑う。

「君がハッピーなら僕もハッピー!こうして一緒に歩くのもハッピー!」かすれ声で言う。

 

ジョーを1ブロック離れたアパートの前まで送ってバーへ引き返した。そのほんのわずかな距離を歩きながら「悪いことをしてしまった」と胸がギュッと締め付けられた。

 

あれは夏の終わり。

 

人はたったひとつの言葉や一瞬の映像で、心のどこかに潜んでいる記憶を瞬時に想い出すものである。