映画館で気まずいのは声を出して笑ったら、それが自分ひとりだった時。

それが何回も続くと、自分は感覚がずれているのではないか、と思ったりする。

 

“箸が転んでもおかしい年頃”よりは少し大人になっていた時だが、いつもTVでサングラスにスーツ姿、怖いセリフを言いながらライフルを持って撃ちまくっている強面の俳優が映画の中で「白い恋人たち」という綺麗な言葉を優しく口にした時、私は吹き出した。それにつられて一緒にその映画を観ていた

ふたりの友人も必死に声を押し殺しながら笑った。そのふたりにあとでものすごく責められた。

笑いはつられることがある。

 

アメリカ人の夫を持つ友人が外で起きた夫の面白い出来事として話してくれたトピック。

それは肌の色に関することで友人は大笑いして話すのだが、私は少しも笑えなかった。長く一緒にいるから似てくるのか、もともと似ているところがあるから一緒になるのか”似た者夫婦だ”と怒りに任せてそんなことを思った。

 

自分が笑えるような面白いことは他のみんなにとってもそうだろうと思うのは間違いである。

気を使って笑ってくれる時もあるけれど・・・

 

普段のちょっとしたことがツボにハマってしまう時がある。

以前、働いていたオフィスでのこと。上司に取引先の担当者から電話が入った。

こちらが提出した原稿にクレームが出たらしい。

 

「だいたい、今の時代に何時(なんどき)なんて言葉を使いますか?古いんですよ」

とお叱りを受けたボスは冷静に返した。「それは“なんどき”ではなく“いつ”と読むんですけど」

 

そのあまりにも感情のない真っ平らな言い方に、私はお腹を抱えて笑った。

あとで思い返しても可笑しく、しばらく笑っていたような気がする。

しかし、これを面白いと思わない人だっている。当然である。

このボスはなかなか気難しい人だったが、この人の笑いのセンスは大好きだった。

 

やはり以前勤めた会社で、とても厳しい先輩がいた。常に先輩風を吹かせ、理不尽なことを平気で言う人だったが、何故か笑いのツボが同じだった。勤務中に笑いをこらえるのが大変な時が何回もあった。

だから、どうにかやってこられたのだと思う。

 

笑いのツボが同じことは人間関係で役に立つことがある、と思う。